大村高校と諫早高校を比較する その1
歴史的事実を消してばかりの長崎県にダマされないために
なぜ昔のこと、歴史を知る必要があるのか?過去の学校のことを知る必要。でも、長崎県教育委員会や長崎県の教員たちは過去を消そうとしてばかり。
大村の分校として開校した諫早高校
大村の分校として開校した諫早高校からは、創立以来この100年、ビッグビジネス(大企業、東証上場企業)のトップも、国立大学の学長も副学長も、1人もでていないという事実がある。
朝日新聞を招いて講演会を開き、全校生徒を参加させた諫早高校
実は、諫早高校自身が公開していたので知ったが、諫早高校は、近年、なんと、朝日新聞の専務(諫早高校出身者ではない)を招いて講演会を実施し、生徒全員に聴かせたようだ。
新聞には傾向がある。朝日新聞は伝統がある大新聞社だが、ご存じの通り、極端に左に偏った論調の新聞で知られている。
出身高校の先輩でもないのに、わざわざ朝日新聞を呼んで講演した事実。諫早高校の卒業生は、大卒時の就職や、その後のことを何も知らなかったのかも。
講演者でわかる学校の思想傾向
おそらく、出身高校の先輩ではないのに、朝日や毎日を呼んで、講演させることの意味と、その後、学校が社会からどういう判断を下されるかを、もしかしたら、知らなかったのではないだろうか?
いくらスポーツに力をいれても、進学実績が良くても、大卒や院修の就職時にどうなるか。諫早高校OBやPTAがなぜ出身高校の先輩ではない朝日新聞を呼ぶことに反対しなかったのか?
いや、諫早高校は、そんな学校なのかも?諫早高校の卒業生からは、AV女優が輩出されている話もある(諫早高校出身者が話していた)し、大村の卒業生とは大きく違うように見える。
諫早高校は、かなり高い確率で、公開された事実(朝日新聞の講演会を開催)から、決定的なことを教えてくれたことが読みとれるのではないだろうか?
修学旅行先でわかる学校の思想傾向
この時点で、長崎西高(長年にわたり、共産党が支配する独裁国・中華人民共和国に修学旅行している / 長崎西高自身が公開)などと同様、諫早高校は、特定の思想を持つ教員らの影響下にある学校なんですよ、と学校自身がおおやけに伝えてくれたのではないだろうか?
*一例として、修学旅行は生徒が出発する前に、教員の方々は、修学旅行の下見旅行をおこなっている。
その下見旅行で、民主主義の国ではない、共産党の独裁国家である中華人民共和国の政治宣伝として有名な場所を訪問していることが知られている。
特定思想を持つ長崎県教員の影響を受けないようにしよう。思想のあやつり人形にならないようにしよう!
このような教員の方が、はたして中立的な教育ができるのか、疑問ではないだろうか?
特定思想を持つ教員が集められている学校はどこですか?
だから長崎西高や諫早高校の卒業生は、いいか悪いかは、それぞれの人の判断だが、特定の思想の影響を受けている可能性が高いのでは?と判断することができることもあるかもしれない。そうではなければいいが。
数々の事実から、大村高校は、校長先生、教頭先生、同窓会、育友会、PTAと力をあわせて、このようなことにならないようにしたほうが良いと思われるがどうだろうか?
長崎県教育委員会と長崎県の教員が押しつける思想の影響を受けないように
なぜなら、大卒や院修時の就職試験のときに、さまざまなチェックで(就職希望者の思想チェックは違法ではない)、特定の思想の影響を受けた(とみなされた)人は排除され、チャンスが閉ざされてしまうのです。*学校の先生は就職活動をしたことがないから、入学した大学の偏差値と、試験の点数だけが良ければ、すべてうまくいくと思っている世間知らずである事実を知っておこう。
大卒や院終了後、企業に就職を希望する人は、高校時代から、一部の教員たちが持っている思想の影響を受けないようにしよう。
思想の影響を受けた人は、どこの大学卒でも(東大も含まれる)企業には就職できなくなるので、人生の選択肢を失いたくない人は、一部の教員たちが持っている思想に近寄らないこと。
ほか、長崎県内で力をいれている運動のようなもの、たとえばサヨクの学校として名前が売れている長崎西高(修学旅行先が中国か韓国で明白)が中心になっている運動や、また、どこかの国にノートや鉛筆などを送ろう、何とかを明るくしてゆく運動、何とかの主張をする、何とかのために高校生署名運動、などというものは、特定の思想を持つ人たちが運営している運動だとみなされているので、将来、企業に就職を希望する可能性がある人は、高校時代から絶対に、かかわらないこと。
未成年の高校生が、署名などした場合、名前が残ってしまうので、名簿が漏れた場合、あとで大変なことになる可能性も発生する危険があるのではないだろうか?
何も知らずにかかわると、将来、大卒や院修時、成績が良く人物評価が良くても、「思想に問題あり」ということで、正社員としての就職が難しくなる可能性が発生する。
学校の先生が考える世界と、現実社会は違うので、将来を棒に振らないようにしよう。
大学の就職活動で、有力企業に就職がきまりそうだったのに、高校の時に、ある運動で署名したことが発覚して、就職ができなかったら、やっぱり後悔するんじゃないかな?
署名などは、法律的な大人になってから、二十歳をこえてから、法律的に自分で責任をとることができる年齢になってからで、いいんじゃないかな?
大村高校と諫早高校を比較してみる
さて、大村高校と諫早高校を比較してみる。
分析してみるとわかるが、大村高校は、大高魂(だいこうだましい)、つまり、ほんとうの両道不岐(りょうどうふき/文武両道より高次元の考え。志[こころざし]だけでは、ハンパな人生に終わる)スピリットの学校であることがわかる。
学界と財界
学界と財界では、大村は第一回卒業生から、大阪大学学長(トップ)を出し、そして世界の三菱重工のトップを出したことを皮切りにして、この約130年もの 間、多数のビッグビジネス(大企業、東証上場企業)のトップも、日本経団連の理事も輩出し、国立大学の学長も副学長も輩出。
さらに、大村高校100周年で生徒に向け講演した、日本人として初めて世界銀行の副総裁となった人も大村の卒業生なのです。
武門
武門では、第二次大戦前は旧帝国陸軍のトップである陸軍大将、戦後は陸上自衛隊のトップである陸上自衛隊幕僚長(ばくりょうちょう)を輩出している事実。
*日露戦争では第一軍の作戦参謀。その後、ドイツ留学、台湾軍司令官、そして帝国陸軍トップの陸軍大将となった福田雅太郎(ふくだまさたろう)先輩
*福田先輩のエピソードとしては、旧制大村中学卒業式の前日、大村の本町で、巡査(警察官)と殴りあいの喧嘩(けんか)をしたために、卒業式には出席できませんでした。
*志摩先輩のエピソードは、志摩先輩の在学中に、天皇陛下が大村高校にいらっしゃいました(昭和24年/1949 5月25日)。その時に、在校生として、歴史的な天皇陛下による行幸に立ち会えたことでした。
メディア
メディア関係では、第二次大戦前は、都[みやこ]新聞(現、東京新聞)のトップであり社主(オーナー)、戦後は、大村高校120周年で生徒に向け講演された*日本経済新聞のトップを輩出。
*日本経済新聞は、三井物産が発祥。新聞以外に、メディア関連子会社としてTV東京がある。
銀行
*平成29年/2017年 8月10日追加 現(平成29年/2017年)、三菱東京UFJ銀行副頭取 荒木三郎先輩 経歴:大村市立大村小→大村市立玖島中→大村高校普通科文系→東京大学法学部→三菱銀行入行
荒木先輩のこと その1 その2
起業
世界の田崎真珠(東証一部上場)をはじめ、長崎県ではただ1校、大村高校だけが、ビッグビジネスの創業者を多数輩出し (長崎県内で大村以外では、平戸の猶興館高校は1名輩出;ジャパネットの創業者である高田社長 )、大きく日本の社会に貢献し続けている事実もある。
*田崎真珠創業者 田崎俊作先輩の本
大村という、江戸時代から穏やかな環境
ところで、人の成功は、どこの大学を出たかより、思春期(つまり高校時代)に、どのような影響を受けたかが大きいとされる。
江戸時代から、大村はおだやかで、藩主が、江戸時代のみならず、明治時代から昭和の第二次大戦前まで、学問や実業を目指すものを物心両面で支援してきた背景(たとえば、大村の奨学生制度、東京・中野にあった大村出身者のための東京大村寮)がある。
第二次大戦後も、日本経団連の副会長になった先輩が中心となり、大村のスピリットを卒業生が引き継いでいる。
*戦国時代の西九州:諫早の西郷氏が滅ぼされる前(島原の有馬氏と大村氏はいとこ、武雄の後藤氏と大村氏も親戚。長崎氏は大村氏の家来で大村領でした)
一方、大村とは違い、諫早(西郷氏)は豊臣秀吉に反逆し、滅ぼされ、戦国時代から明治時代になるまで、なんと約300年間も佐賀の植民地とされ、佐賀から搾取(さくしゅ)され続け、一揆がおきた激しい風土。
国内でも鎖国していた佐賀藩の領土だった諫早
佐賀は二重鎖国制(にじゅうさこくせい)、つまり、国外にたいしてのみならず、国内に対しても鎖国制度をしいていた。
そのため、佐賀の植民地だった諫早と旧北高来郡では、よその土地の人と交流することを禁じられていた。この気風が消えないで、諫早の風土が、閉鎖的で、なんとなく排他的なのは、そう言う理由だと思われる。
それから、長崎県人クラブという東京の長崎県の県人会で、長崎県内高校同窓会の交流に、理由はわからないが、諫早高校同窓会の代表だけは、過去たったの一度しか出席していない(長い歴史のうちたった1回だけ)。
まず、諫早高校は、長崎県内の他校同窓会と、過去から現在まで、交流をこばんでいるという事実が読み取れる。
つぎに、諫早高校出身で活躍している人は、個人の陸上選手だったり、小説家だったりする。つまり、他人とさほど交流しないで、協力しないで、個人でできる職業の方々だという事実もある。
ほか、入学は旧制佐世保中学で大阪の住吉中学に転校しその後旧制諫早中学に卒業式の日にたった1日だけ通った人から、世界的な人材が1人輩出されている(ノーベル化学賞の下村博士は、諫早で教育を受けていらっしゃらない事実。また、日本国籍を本人の意思で捨て去った事実)のだが、正確には、旧制諫早中学(諫早高校)で、教育を受けたわけではないという事実が明らかになっている。
実際、諫早生まれで、諫早で小・中と教育を受け、諫早高校出身者で、大きく活躍する人は1人も出ていない。なぜだか、そうなる。そこが大村とまったく違う。
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実例として、諫早出身で大村の卒業生だった、詩人・伊東静雄(いとうしずお)先輩。
伊東静雄先輩と旧制大村中学の同期で、卒業後も大村出身者と交流を続けた諫早出身で大村の卒業生だった二人、川副国基(かわぞえくにもと)先輩と蒲池勘一(かまちかんいち)先輩は、大学教授となった。
しかし、伊東先輩は諫早のカラを破ることができなかったようで、旧制中学(現在の高校)教員のまま終わっている。
諫早市は公式HPで、諫早一揆がおきたことを隠しているようです。諫早市は、知られては困ることを隠しているようです。
早稲田大学文学部の学部長となった川副国基(かわぞえくにもと)先輩は、昭和49年/1974年の大村高校90周年の記念式典に出席されて、記念文集に寄稿された。
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やはり、諫早は300年もの間、佐賀の領土だった影響なのだろうか?
大村と違う環境だった、長崎と諫早
ほか、諫早市や長崎市の主要な領域は、江戸時代300年間、植民地だった。
天領とは聞こえがいいが、長崎は徳川領で、幕府の植民地。諫早は佐賀の植民地。植民地で生まれ育っても、支配者を超えることはできない。トップになれない。その根性が、諫早市や長崎市には根付いているのではないか?
大村は江戸時代に独立国。司法権、行政権、そして立法権さえもあった。よその支配者に統治されるのではなく、自分たちで決める伝統があった。この点が、長崎市や諫早市に根付いた伝統とは違うのではないか?諫早市や長崎市からは、リーダーシップをとるものがでない伝統も、ルーツは江戸時代にあるのではないか?
事実を隠す長崎市の歴史家たち
長崎市の歴史家や教育委員会の人たちが必死に隠していらっしゃることは、大村が長崎奉行になっていたこと。知られたらまずいと考えていらっしゃるようで、さまざまな方法で隠されていますので、事実を知っておきましょう。
長崎市の人たちは、「ごくふつうに大村を認めたうえで、なんの劣等感も感じないで、相手を尊重する」ということができないみたいですよ。
結論
結論は、個人ではできない大きなことを、トップとなり、リーダーとなり、人と関わり交流しながら、多くの人をより良い方向にリードしていくのが大村の卒業生。人と交流しないで、うちにこもって個人でできることをやるのが諫早の卒業生と、事実から言えるのではないだろうか?
東京に出た大村出身者の特長
さて、大村高校出身者は、多数の人と交流しながら、上を目指し、成功者が続出し、日本の財界(三菱系列社長、三井系列社長、住友系列社長)および学界の屋台骨をささえる人材を輩出し続けている。
おそらく、諫早高校出身者は、交流しないで、カラにとじこもってしまう気持になるのかもしれない。
だから、諫早高校出身者からは、上場企業の社長も、国立大学の学長も副学長も、諫早高校創立以来この100年、1人も輩出されていないのではないか?
大村城南高校+諫早高校+長崎明誠高校の3校は、大村の分校として生まれた学校だという事実
大村城南高校、諫早高校、長崎明誠の3校は、実は兄弟校で、由緒正しい歴史の大村高校から生まれた子供たち。