大村高校の玖城(くじょう)とは何ですか?

玖城とは?

長崎県にある日本桜名所100選は、大村公園だけ

長崎県にある日本桜名所100選は、大村公園だけ

大村高校は、江戸時代、1670年に玖島城、通称「玖城」(くじょう)で、集義館(しゅうぎかん)としてスタートしました。

玖島城

玖城とは、大村藩初代藩主・大村喜前(おおむらよしあき:洗礼名ドン・サンチョ /当初キリスト教(カトリック)、のちに仏教・日蓮宗に改宗)が1599年、熊本の加藤清正(かとう きよまさ)公からアドバイスを受け、築いたお城の名前です。

加藤清正 公

加藤清正 公

現在玖城の本丸は、大村神社となり、周囲は長崎県でただ一か所・全国さくら名所100選に名を連(つら)ねる大村公園となっています(加藤清正 公の熊本城も全国さくら名所100選にランクインしています)。

玖島城で始まった、九州初の学校・集義館。お城から本へ、伝統は受け継がれています。

日本歴史大事典(小学館発行 / カシオ電子辞書版)より 1670年 四代藩主 大村純長が開校した大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)

日本歴史大事典(小学館発行 / カシオ電子辞書版)より
1670年 四代藩主 大村純長が開校した大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)

それは、玖城の名は、本の名前として、大村高校で受け継がれているのです。

まず、明治24年(1891年/今から124年前)、当時、大村高校の前身・旧制大村中学を経て一高(東大教養部)の学生だった朝永三十郎(ともなが さんじゅうろう、ノーベル物理学賞・朝永振一郎の実父)先輩をはじめとする大村の卒業生が、東京から大村の在校生にあてて、定期的に雑誌の刊行を始めました。

その雑誌の名が、玖島城にちなみ「玖城」。

玖城 学友会雑誌 上京した大村の先輩が、後輩の在校生のために、受験勉強のやりかた、東京の情報を知らせるために発行していた本。

玖城 学友会雑誌
上京した大村の先輩が、後輩の在校生のために、受験勉強のやりかた、東京の情報を知らせるために発行していた本。

編集メンバーは、旧制大村中学の一期生と二期生の方々。発起人が、蔵前工業(東京工大の前身)に進学し、後に、三菱重工株式会社の社長となる浜田彪(はまだ ひょう)先輩です。浜田先輩は、大村・福重(ふくしげ)出身。写真はこちら。

旧制大村中学時代の、朝永三十郎先輩

朝永三十郎 大村中学入学当時 明治17年/1884 袴(はかま)姿がかっこいい

朝永三十郎
大村中学入学当時
明治17年/1884
袴(はかま)姿がかっこいい

次ぎに、「玖城」の名を使ったのは、大村高校校歌の作詞者である福田清人(ふくだ きよと)先輩。旧制大村中学時代に、文芸部を創部され、文集「玖城」を創刊されました。現在も玖城の名前は受け継がれ、大村高校の文集「玖城」として刊行されています。

福田清人(ふくだ きよと)先輩が在学した当時の大村のことは、福田清人先輩が「秋の目玉」という本に書き残していらっしゃいます。

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福田清人先輩著「秋の目玉」旧制大村中学時代の体験記が物語として書かれている。

福田清人先輩著「秋の目玉」旧制大村中学時代の体験記が物語として書かれている。

さて、大村高校発祥(はっしょう)の地であり、由緒(ゆいしょ)ある大村公園。

大村公園の2000本の桜に連動し、新入生を歓迎するかのように、大村高校・大高坂(だいこうざか)のダイコウ桜並木も満開となります。

大高坂

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