諫早高校ホームページには、
「大正11年4月大村中学諫早分校設立
翌年、諫早中学独立」
とだけ書かれています。あたかも、すべて独立したかのように記され、事実が書かれていません。
大正11(1922)年4月12日、諫早分校が開校されました。本校の大村から諫早分校に派遣された教職員は、今井嘉一(いまいかいち)諫早分校主任以下7名と校医1名で大村中学諫早分校がスタートしました。
さて、大正11(1922)年に諫早高校の前身である大村中学諫早分校に入学した生徒はどうなったのでしょう?諫早高校はどこにも書いていません(平成27/2015 6月7日現在)。事実が知られても、諫早高校にまずいことはないでしょう。
旧制中学は五年制でした。
大正11年大村中学諫早分校入学者は、五年後の卒業時も諫早中学卒業とはならず、大村中学卒になっています。つまり、独立後も諫早中学の校長は大村中学の校長が兼務していました。そして、諫早中学一期生は大村中学卒となっています。
昭和二(1927)年の大村中学卒業式は3月2日におこなわれました。そして、諫早中学第一回卒業式は、昭和二(1927)年3月6日でした。諫早中学第一回卒業生では、大村中学の広田校長が祝辞を読んでいます。
経歴:旧制第二高校(東北大学)から東大卒。第二高校時代に恩師(英語)が、詩人の土井晩翠(どいばんすい)。その縁で旧制大村中学の校歌は作詞が土井晩翠。*戦国時代の西九州(諫早の西郷氏は豊臣秀吉にさからったので滅ぼされ、佐賀の植民地とされました。長崎はありません、大村領で、大村氏の家来でした。島原の有馬氏と武雄の後藤氏は大村氏と親戚でした)
当時の記録によれば、「もともと諫早は佐賀の佐賀鍋島藩の系統で、大村とは言葉や生活習慣や気風が違い、時には感情のもつれがあった」と書かれています。
諫早は、戦国時代から江戸時代を経て約300年もの間、佐賀の植民地にされ、佐賀から搾取されていた土地柄です。隣り合っているのに、大村とはまったく違います。諫早人の気質は今も変わっていないように見受けられます。
不思議なのですが、大学を出る頃、諫早の人は、大村の人とはまったく違う進路を選択します。理由はわかりません。
成績や偏差値というより、生まれ育った環境が影響しているのではないでしょうか。だから、諫早高校からは、いまだに国立大学の学長・副学長も、東証一部上場企業の創業者も、大手企業の社長や経営陣に上った人が一人もいません。
実業、実学、学問、武門(軍、自衛隊)そして学校行政にすすみ、社会に大きく貢献しながら現実的で裕福な生活を目指す大村高校卒業生とは違い、諫早高校卒業生の理想は、社会貢献するより、貧乏(びんぼう)しながら、虚業である小説家や文筆業で名を売ることなのでしょうか。なぜか、そういう傾向になっています。