大村高校の校歌を読み解く 2

当サイトは、いままでまったく話題にのぼらなかった大村高校に関する歴史上の出来事を、少しずつとりあげ、情報共有してゆくことも目的としています。学問的な論文調で専門家受けする難解なものより、わかりやすく、写真や図表を使い、できるだけ小学校高学年から理解できるような文章・文体にしていくように努めています。

こうか2

1.青史(せいし)とは?

大辞泉より引用

青史(せいし)・・・歴史、歴史書、記録。紙のない時代、青竹の札(ふだ)をあぶって文字を記したところから。

青竹(あおたけ)の札を竹簡(ちっかん)と言います。
竹簡の制作過程より引用

ちくかん

2.青史に誇る大村の里

大村は、古代の条里制の跡が、大村市立郡(こおり)中学校周辺、三城付近に残っていることで、紙がなかった古代から、人の営みが続いていることが証明されています。

大村市観光ナビより。大村市に残る古代の条里制です。
条里制

たとえば、長崎市は、大村純忠公が1570年に町をつくるまで、十数軒の漁業の家しかなく、あとはジャングルだった場所だと言われています。長崎市に関しては、古代から長い間、歴史に登場していません。大村付近は、古代、現在の東彼杵郡と同じく、彼杵荘(そのぎのしょう)と呼ばれていました。大村市は市制がしかれるまで東彼杵郡大村町でした。

大村は、古代の景行天皇が「玖島」という地名を名付けたように、古くから続いている町なのです。肥前風土記、日本書紀で景行天皇のことを理解することができます。

第十二代 景行天皇

第十二代 景行天皇

肥前風土記(ひぜんふどき)西暦730年ころ

日本書紀 西暦720年ころ

まとめ

神話時代のことは信用できないという人がいます。しかし、大和朝廷の統一、応神(おうじん)天皇から約1500年。はっきりした時点までさかのぼれば、1500年一つの血統で国が統一され、そういう国で、現存している国は日本だけしかなく、大村も最初から存在していることこそが、「青史に誇る大村の里」なのでしょう。

長崎市は古代の日本に全然つながっていないのですが、大村は日本の成立と共に、古代の歴史につながっているのです。

第十五代 応神天皇

第十五代応神天皇

応神天皇陵

応神天皇陵

応神天皇から、神話ではなく実在が認められていると言われています。

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