● 伊東静雄(いとう しずお)先輩
旧制大村中学、旧制佐賀高校、京都大学卒、詩人、大阪・住吉中学校 国語教師。
1906年(明治39年、日露戦争の翌年) 生まれ~1953(昭和28年、第二次世界大戦の8年後):47才にて他界されました。
伊東静雄(いとう しずお)先輩が京都大学文学部に入学した1926年、ノーベル物理学賞・朝永振一郎博士の父で、旧制大村中学の先輩であった朝永三十郎(ともなが さんじゅうろう)京都大学文学部教授(在任1907~1931)が、大村出身者の世話などをされていました。
しかし、伊東静雄先輩は、大村の隣り、諫早出身であったせいかどうかはわからないのですが、母校(旧制大村中学)の先輩である朝永三十郎(ともなが さんじゅうろう)先輩[京都大学文学部教授]のもとに一度も、挨拶にさえ行かなかったのです。伊東静雄先輩は、地域のカラに閉じこもった人物だったのかもしれません。
諫早の方々は、この21世紀においてさえ、さんざん大村の悪口ばかりいう傾向が強いので、伊東静雄先輩が旧制大村中~京都大学に在学していた20世紀初頭は、もっとひどかったのかもしれません。
諫早と大村の対立の原因は諫早にあることが、史実でわかります。
16世紀、ポルトガルからやってきた宣教師*ルイス・フロイスの日本史に詳細が書かれています。
*宣教師 ルイス・フロイス:1533年ポルトガル リスボンに生まれ~1597年大村領長崎(当時)にて死す。
*戦国時代の西九州(諫早が滅ぼされる前は西郷氏、後に佐賀によって植民地化。島原の有馬氏と武雄の後藤氏は大村氏と親戚です)
ルイス・フロイスによれば、現在は諫早と書いてイサハヤと発音しますが、当時は伊佐早と書いてイサハイと発音(早岐をハヤキではなくハイキと発音するように)していたようです。
さて、大村と島原に対立して、秀吉のもとに出向かなかった諫早は、秀吉に滅ぼされ、佐賀の領土とされてしまいます。
当時、大村氏と島原の有馬氏は親戚ですから、諫早の西郷氏は大村が憎(にく)かったのでしょう。
*大村純忠公の時代から、シンボルカラーの紫紺(しこん)が見えます。大村高校のシンボルカラーも紫紺です。
大村純忠公のイメージ
そして、諫早村を含めた北高来郡は、戦国時代からなんと明治まで300年ものあいだ、佐賀の支配に苦しみます。
おだやかでのんびりして、飢えもなかった大村。佐賀の植民地とされ、苛烈(かれつ)な支配に苦しみ、一揆(いっき)がおこった諫早。隣りあっているのに、対照をなす住民の性格は、江戸時代にできあがったものでしょう。
その証拠に、佐賀に支配された諫早は、言葉が諫早の支配者だった佐賀の佐賀弁になってしまいました。
諫早が大村と仲良くしては困る佐賀は、徹底的に大村のことを悪くいい、大村と仲良くなれないような政策をとりました。また、佐賀は二重鎖国政策、国内においても鎖国していました。つまり、よその人と口を聞くことを禁止していました。現在も、諫早が排他的でイヤな感じがするのはそのためです。
実例として、佐賀の殿様が大村湾を嫌い、大村湾を悪くいい、大村湾を見てはいけない方針の文書を残しています。
面白いことに、それから100年以上もたっているのに、伊東静雄先輩でさえ、佐賀の殿様と同じで、大村湾を嫌い、大村湾を悪く言う文章を残していますから、諫早の問題の原点は佐賀藩の統治方法であったのではないでしょうか。
ただ、その源流は、豊臣秀吉に逆(さから)い、豊臣秀吉の代理人の佐賀に滅ぼされてしまった諫早(西郷氏)にあるのでしょう。佐賀が中国大陸(宗主国)、諫早が朝鮮半島(属国)、大村が日本(独立国)だと、置き換えて考えてみると、なんだかスッキリわかると思います。
さまざまな結果、諫早は、大村とは仲良くしない方針のように思えます。
豊臣秀吉に滅ぼされるまでの間、諫早の殿様と、大村の殿様とのことは、ルイス・フロイス日本史9巻以降を参照してみてください。
諫早市は、佐賀の植民地にされていた事実を隠しています。「西郷氏は敗走しました」とだけかいてあり、佐賀の植民地にされていたことや、圧政による諫早一揆のことはどこにも書いてありませんから、隠したいのでしょう。でも事実を知るべきです。
調べてみると、本当は、けっこうみじめな歴史を背負った諫早なのですが、知られては困る事実は書かない方針のようですよ。
諫早市HPより引用
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