航空宇宙科学博物館に行ってきました
岐阜に行ってきました。
各務原(かかみがはら)の航空宇宙科学博物館に行ってきました
*各務原(かかみがはら)市の位置:名古屋圏
航空宇宙博物館は、まだ建設工事中で正式なオープンは平成30年(2018)です。
復元中の帝国陸軍の三式戦闘機「飛燕(ひえん)」と、山崎直子・日本人宇宙飛行士の大卒時の卒業設計を見てきました
宇宙飛行士・山崎直子さんの卒業論文は宇宙ホテル
44秒に山崎宇宙飛行士登場
帝国陸軍戦闘機・飛燕に関して
川崎重工が開発しました。現在も川崎重工は、飛行機、潜水艦、列車のほか、新幹線も開発しています。
飛燕に関しての本
購入してきました。
*岐阜県 各務原(かかみがはら)市 航空宇宙科学博物館
戦争中、日本が生み出した数々の飛行機
零式(ゼロ戦)、一式陸上攻撃機、、二式大艇(にしきたいてい)、三式・飛燕(ひえん)、四式、鍾馗(しょうき)、隼(はやぶさ)、紫電改(しでんかい)。
大村の橋口先輩(帝国海軍・技術少将)が開発責任者だった飛行機
大村の先輩が開発責任者だったのが、二式大艇(にしきたいてい)と紫電改(しでんかい)です。
第二次大戦中に橋口先輩が書かれた本
紫電改の開発責任者だった大村の先輩は、技術者だった経験を後輩に伝えるために、戦中に本を出版されました。たまたま、私が古本屋で見つけ購入しましたので紹介しておきます。
昭和18(1943)年に出版された、橋口先輩が書いた本を古本屋で入手したので、紹介しておきます。この本は、戦中の昭和18年に出版されました。戦争に勝つか、負けるか、わからない時に書かれた貴重なものです。
本のタイトル:「翼」- 随筆 航空技術
橋口先輩の経歴
竹松小学校(現在も竹松小学校)
→旧制大村中学校(五年制 現、大村高校)
→旧制 国立第五高等学校(三年制 現、熊本大学)理系
→東京大学 工学部 船舶工学科
→帝国海軍に志願し技術者として入隊
橋口先輩はお父様を早くに亡くされ、家は母子家庭でした。
第二次大戦前は、成績が良かった場合、大村家から奨学金が出ていました。
家が貧しくても、勉強ができれば、お金のことは心配しないで大学まで進学できました。また、東京・中野に大村家の「東京大村寮」があり、旧制大村中学出身者は、安い費用で東京で生活できました。
東京大村寮に関して
*注:上記、後ろから5行目「中野(東京都中野区、最寄駅が中央線中野駅)の大村言葉」に着目
「中野の大村言葉」とは…
第二次大戦中、アメリカ軍による日本の民間人虐殺事件である東京大空襲前まで、東京都中野区の中野サンプラザ(令和五年閉鎖)付近に、「東京大村寮」がありました。大学生30数名が生活していた大きな寮でした。
→閉鎖前の中野サンプラザ
→JR中野駅
中野にあった東京大村寮は、旧制大村中学出身で、東京の大学に入学した人のための寮でした。大村家が私費で旧制大村中学卒業生のために設立した寮で、大村家の補助で寮費が安く設定されていました。
当然、その場所では大村弁が主流の言葉でした。それを「中野の大村言葉」と言います。
毎年4月、物理学者の長岡半太郎先輩が、初めて上京し、東京大村寮に入寮した大村の後輩のために、激励の言葉をかけに来訪されていました(ソース:大村高校百年史、野口山荘随筆本文による)。
野口山荘随筆の「刊行のことば」を書かれた柳原先輩は、東大卒で、東大時代は「東京大村寮」で生活した経験があリました。
本の後付け
40代の橋口先輩が、航空技術者に講義している姿
紀元2600年が昭和15年=1940年ですから、紀元2603年は昭和18年、1943年、戦中です。
紀元2600年に関して
目次です。1
目次です。2
内容は客観的
橋口先輩は海軍でした。内容は、陸軍風の精神論ではなく、技術者の立場から、客観的に書かれています。
同じく、内容
70年以上前の本で、劣化が激しいのですが、国立国会図書館に蔵書され、すでにデジタル化(電子化)されていて、閲覧できます。
内容はしっかりしていて、頂点を極めた技術者が、技術者の立場から、工学部に進む学生のために客観的な視点でかかれています。
国立国会図書館に蔵書されていて閲覧可能
なお、この本は、国会図書館に蔵書があり、閲覧可能です。
国会図書館 「翼、橋口義男」で検索したもの
橋口先輩に関して 1