【在校生向け】大学入学前に、予習しておこう

本年(平成27年度/2015)4月から、全国100以上の大学で使用される英語教科書に登場するのが、台湾で農業用水のダム建設に活躍された八田與一(はったよいち)という人物。

北國新聞より引用

台湾の水利事業に尽くした八田與一(はったよいち)技師=金沢市出身=が、慶大や法大(*法政大)など全国100校以上の大学で使われる来年度の英語教科書に登場することになった。

中略

 教科書では、台湾が日本統治下だった1930年、台南に烏山頭ダムを建設し、不毛の土地を一大穀倉地帯に変えた技師の功績を紹介。台湾と日本人の労働者に分け隔てなく接した人間性にも触れ、「慈悲深い人物として台湾で深く尊敬されている」としている。

台湾 台南市にある八田與一氏の銅像

台湾 台南市にある八田與一氏の銅像

英語教科書の名はJapan Inovation(ジャパン イノベーション)

南雲堂 大学用 英語教科書 Japan Innovation

南雲堂 大学用
英語教科書
Japan Innovation

台湾

戦前、台湾は日本でした。台湾の台湾軍司令官だったのが、大村の福田雅太郎(ふくだまさたろう)先輩です。

旧制大村中学から 陸軍士官学校 陸軍大学を経て 日清戦争 日露戦争で参謀 台湾軍司令官から 陸軍トップの陸軍大将
経歴:旧制大村中学→有斐学舎(予備校)→陸軍士官学校→陸軍大学。日清戦争、日露戦争で参謀。台湾軍司令官から陸軍トップの陸軍大将

日本の台湾軍本部があった、台湾総督府。現在は、台湾政府の総統府として使用中。
*中国語で総統は、日本語で大統領という意味です。

台湾総督府 現在、台湾大統領府

台湾総督府
現在、台湾大統領府

福田先輩は、旧制大村中学から、陸軍士官学校、陸軍大学、日露戦争では第一軍の作戦参謀、そして、台湾軍司令官、陸軍トップの陸軍大将になった人物です。

話を元に戻すと、八田與一(はったよいち)氏のことは、大学入学前に予習できるので、紹介しておきます。

動画 台湾映画 KANO 日本語です。

この映画(台湾映画 KANO)は事実をもとに制作されています。一度も試合に勝てなかった学校が、優秀な監督を迎えることによって、甲子園に出場し、準優勝するまでのストーリーです。

戦前、八田先生のことを授業で教える台湾の高校 33秒
八田先生が登場するシーン 3分53秒
八田先生が建設されたダム 5分4秒

それから、戦前は、台湾、朝鮮半島、満州からも甲子園に出場していました。映画KANOの嘉義農林(昭和6年/1931)、満州の大連商業(大正15年/1926)が、それぞれ準優勝しています。

長崎県は、甲子園に関しては、清峰高校が、春の選抜大会で、平成18年(2006)準優勝、平成21年(2009)に優勝しています。夏の大会で、長崎県代表が優勝、準優勝したことは、いまのところ、歴史上ないのです。

さて、台湾だけではなく、大村にも立派な人がいらっしゃっいました。

長崎県の学校の先生方は、おそらく何も知らないだろうから、書いておきます。

大村に住んでいる人が穏やかで、なごやかに生活できるのは、江戸時代より食べ物に不自由しなかったことが原因だと言われています。

なぜ、不自由しなかったか、わかるでしょうか?

当時は長崎県などありません。

長崎県が誕生する210年くらい前の話です。長崎市には、まだ奉行所がなく、長崎文化がなかったころです。佐世保など、まだ未開のジャングルだったころです。

野岳湖

野岳湖

ちょうど、大村高校の前身・集義館が、玖島場内にできたころ、鯨(くじら)で大富豪となった人物がいました。その人物の家は、現在の本町の西沢デパートの敷地にありました。

当時、大村高校の前身・集義館を創設した殿様である大村純長(おおむらすみなが)公が、この富豪となった男に「お前は面白い男なので、義太夫(ぎだゆう)と名乗れ」と言いました。

*義太夫(ぎだゆう):今でいえば、「オタク」とか「アニメ好き」という意味

殿様の命に従い、名を義太夫としました。深沢義太夫の子孫の方は現在、深沢姓ではないが、大村市内に住んでいらっしゃいます。

深沢義太夫は何をしたのでしょうか?

大村高校に入学した直後、歓迎遠足というものがあります。

歓迎遠足の目的地はどこかご存じでしょう。

野岳湖

野岳湖は、琵琶湖のような天然の湖ではありません。人造の湖です。

深沢義太夫が、鯨で儲けたお金を出して、その金で、企画され、設計され、人を雇い、大規模な土木工事により造築され、完成したものです。

なぜ、企画されたのでしょうか?

農業のため、治水のためです。この深沢義太夫は、東彼杵郡にも同様の湖を建設しています。

こんな人物(財産をなげうって、公共のために使う大人物)は、、長崎市や諫早市、そして佐世保市のようなところからは一人も出ていません。

野岳湖

野岳湖

ところで、この用水と大村藩の治世のおかげで、大村は一度も飢饉になりませんでした。

江戸時代の大飢饉で、佐賀藩や佐賀の領土だった諫早、島原では死者がでたのに。というより、全国で2藩以外では、死者が多数でました。

一人も死者が出なかったのが、大村藩と鹿児島の島津藩です。さすがに幕府は、島津には聞けなかった(薩摩飛脚で検索)ようで、幕府の使者が大村にやってきて、死者がでなかった理由を調べました。

大村に死者がでなくて、食料に困らなかったのは、サツマイモが早くから栽培されていたことと、野岳湖などの灌漑用水がつくられていたからだったそうです。

過激な諫早人と違い、穏やかな大村人の性格は、このように、江戸時代から明治を経てできたようです。

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