大村高校が県内他校と大きく違う点
大村高校が県内他校と違うのは、全国で2番、九州で1番に開校したということの他に、100年以上前から、生徒が自(みずか)らの意思で記録と情報を残し、それらが現在も存在していることです。
文門と武門は両道ではない。融合した文武不岐:学校名の変遷(江戸時代)で判明
集義館(しゅうぎかん)
→五教館(ごこうかん=学問)+治振軒(じしんけん=武術)
→旧制大村中学校(私立として開校、のちに県立)
→大村高校
:県内他高校は口だけの文武両道を語っているように見受けられますが、大村は江戸時代から、本物の文武両道を超えた両道不岐で、ちゃんと学問も武術も融合して(別れた両道ではなく)、存在していました。
大村は他地域と違い、武士のみの学校ではなく、大村領内であれば、身分に関係なく学問も部門も学ぶことができました。
大村藩校五教館(ごこうかん)と幕府の昌平黌(しょうへいこう:現在の東京大学のような存在)
「大村領内に頭がいい少年がいる」という話が玖島城に伝わり、大村の殿様がその少年(農民の息子)と面接し、その少年は五教館に入学を許可されました。
五教館で学び、成績が良かったので、その後、江戸(現在の東京)湯島にある昌平黌(しょうへいこう、現在の東京大学)にまで進学し、のちに学者になった例があります。
江戸時代の最高学府・昌平黌(しょうへいこう)に進学できたのは、現在の長崎県で見ると、大村領内(大村、東彼杵、西彼杵)出身者だけです。現在の長崎市・諫早市・佐世保市の領域から進学した人はいませんでした。
昌平黌は現在も見学できます。東京・文京区湯島にあります。
昌平黌(1690年開校)より、大村藩校(1670年開校)のほうが20年も早く開校しました。
江戸時代の大村藩校・五教館と大村領内のことが紹介された小説。玖島城も登場
文門:現在の大分県知事・広瀬勝貞(ひろせ かつさだ)氏の先祖が大村藩校・五教館(ごこうかん)で教授
その江戸時代に大村を訪問し滞在し、五教館の教授をしたのが、現在の大分県知事・広瀬勝貞(ひろせ かつさだ)氏の先祖である広瀬淡窓(ひろせ たんそう)。
なんとなく頭の形が似ていませんか?
武門:幕末の剣豪・練兵館(神道無念流)のトップ・渡辺昇(わたなべ のぼり=初代大阪府知事)を排出
幕末には、新撰組の近藤勇とも面識がある、江戸(現在の東京)の有名な道場の一つ練兵館(神道無念流)のトップ・渡辺昇(わたなべ のぼり=初代大阪府知事)を出しています。
大村藩が残した記録
さて、江戸時代は、大村藩のブログである「九葉実録(くようじつろく)」として藩が残しました。そして明治以降は、学校が残したものとは別に、生徒が4つの記録と情報を残しました。
野口山荘随筆とは?
他に、旧制大村中学一期生で、旧制大村中学の先生になった人が、大村高校の明治・大正・昭和の人物伝及びできごとを著した「野口山荘随筆」という本があります。
先生がお亡くなりになった後、教え子が集まり、さまざまな場所に書き散らされていたすべての原稿を集めて、原稿用紙に手書きで写し(1960年代、昭和30年代当時はパソコンがありません)、費用を大村高校同窓会で集め、印刷・製本・出版された本があります。
このままだと、歴史に理解がない同窓会の理系の方々および教員らによって葬り去られて、消えてしまいそうなので、当方で、電子本としてデジタル化し、全文検索できるようにし、きちんと後世に残るようにさせていただきました。
明治から昭和にかけ、生徒が私費で残した4つの記録
以下の4つを時代別に解説します。
1.約130年前 :「玖城学友会雑誌」(くじょうがくゆうかいざっし)
2.約110年前:秋の目玉
3.約80年前:不帰春(ふきしゅん)
4.約50年前:大村高校1000日1000枚
約130年前 「玖城学友会雑誌」(くじょうがくゆうかいざっし)
130年前に「玖城学友会雑誌」(くじょうがくゆうかいざっし)という、進学し東京に出た大村の先輩方が、大村の在校生のために、2年に渡り私費で定期的に編集・制作・出版し、東京から旧制大村中学(現、大村高校)に送り続けた情報誌があります。
まず、明治24年(1891年/今から約130年前)、当時、大村高校の前身・旧制大村中学を経て一高(東大教養部)の学生だった朝永三十郎(ともなが さんじゅうろう、ノーベル物理学賞・朝永振一郎の実父で、のちの京都大学文学部教授[専門は哲学]、奥様も大村出身)先輩をはじめとする大村の卒業生が、東京から大村の在校生にあてて、定期的に雑誌の刊行を始めました。
朝永先輩の右の方は、第五高等学校(現、熊本大学)→東大文学部→旧制大村中学(現、大村高校)第十五代校長となり、大正四年(1915年)マラソン大会を導入した渋江小磨策(しぶえ こまさく)先輩。*実は大村高校マラソン大会は110年の伝統と歴史があります。先輩方のみんなが越えてきたマラソン大会なのです。
上記写真、朝永三十郎先輩の右隣で腕組みしている人が、のちに校長となる、渋江小磨策(しぶえ こまさく)先輩。そして校長時代の写真が以下。
定期的に発行された雑誌の名が、玖島城にちなみ「玖城」。
編集メンバーは、旧制大村中学の一期生と二期生の方々。発起人が、蔵前工業(東京工大の前身)に進学し、後に、三菱重工株式会社の社長となる浜田彪(はまだ ひょう)先輩です。浜田先輩は、大村・福重(ふくしげ)出身。写真はこちら。
天皇陛下(昭和天皇)の訪問を賜(たまわ)った大村高校
なお、昭和24(1949)年5月24日、大村高校は、長崎県でただ一校、天皇陛下(昭和天皇)の訪問を賜(たまわ)りました。
この時の在校生だった志摩篤(しま・あつし)先輩は、防衛大学校に進学(一期生)。
のちに、陸上自衛隊トップである陸自・幕僚長(ばくりょうちょう)となり、平成天皇に謁見(えっけん)されました。防衛大学校一期生卒業式の訓示は、当時の吉田茂首相でした。有名な訓示が残っています。
志摩先輩の講演
約110年前 秋の目玉
当時は5年制、学校名が長崎県立中学 玖島学館[くしまがっかん]、現在の大村小学校の場所にありました。
当時の記録は、講談社刊 昭和41(1966)年・野間(のま=講談社社長の名字)児童文芸賞受賞作:「秋の目玉」(全230ページ)
電子版なので、購入後、ダウンロードしてすぐに読めます。
この本に詳しく書き残されています。当時、体育の授業は、大村湾上でボートを漕いだり、天皇陛下の出身校である現在の学習院中等科のように、ふんどしで水泳(大村湾上の臼島[うすしま]まで)したり、と多彩だったようです。
学習院のページより
写真:天皇陛下の学習院中等科時代、学習院伝統による、ふんどしによる水泳のお姿はこちらです(光文社撮影)
学習院・院歌、慶應義塾・塾歌、大村高校校歌、そして大村市歌の作曲者は信時潔(のぶとき・きよし)氏
学習院
慶應
大村高校
大村高校校歌の作曲:信時 潔(のぶとき きよし)1887-1965
アマゾン:信時潔
百年前の大村高校を描いた「秋の目玉」の著者は大村高校校歌+長崎南高校歌+波佐見[はさみ]高校校歌+玖島中学校歌の作詞者である福田清人(ふくだ きよと)先輩です。
大村高校校歌の作詞: 福田清人(ふくだ きよと)先輩 [1904生-1995没]
福田清人先輩は、文芸部・初代部長で、大村高校文芸誌「玖城」(くじょう)を創刊された功績があります。
のんびりした時代だったことが、この本には書かれています。
約80年前 不帰春(ふきしゅん)
当時の県立大村中学校(大村高校の前身)の記録は、戦後、卒業生が資金を出し合い「不帰春(ふきしゅん=帰らない春)」という書物にまとめられ、私費で出版されました。
エピソードとして、疎開で東京の旧制・早稲田学院中学から、旧制・大村中学に転校してきた方の証言によれば、東京では食べるものに困っていたが、大村では食べ物に困らなくて助かったと書かれています。
在校生は、大東亜戦争(だいとうあせんそう=第二次世界大戦)が始まり、勉強どころではありませんでした。支那の蒋介石(しょうかいせき)が率(ひき)いた国民党の中華民国軍が、米軍に物資を補給し、支那(しな)の四川(しせん)省・成都(せいと)市から、大村に米国のB-29爆撃機が飛来し、爆弾を投下していました。
米軍の爆撃で、大村の生徒5名が殺されました
昭和19年(1944年)中国軍の補給による米軍の大村爆撃で、民間人である旧制大村中学生が5名亡くなりました。
*この時の中国は、現在、台湾政府、浙江財閥(せっこうざいばつ)国民党の中華民国です。共産党の独裁政権である中華人民共和国は1949年成立。つまり、日本は中華人民共和国とは戦争していません。
*戦争していないのに、戦勝国と名乗り、謝罪と賠償を求める中華人民共和国のウソにだまされないようにしましょう。中華人民共和国の工作に乗せられ、修学旅行を中国にして、謝罪教育をする長崎県の教育委員会や先生にだまされないようにしましょう。事実を知ることが重要です。長崎県でおこなわれている変な教育の影響を受けないようにしましょう。
高射砲(こうしゃほう)陣地は、現在の久原二丁目・国立病院そばにありました。
高射砲とは?
米軍は3900機のB-29大型爆撃機により、日本本土に襲いかかりました。無差別爆撃により多数の民間人が犠牲になりました。
Bー29とは?
ただ、米軍の爆撃に対して、日本はただ見ていただけではありません。日本は、B-29爆撃機3900機のうち、485機撃墜しました。
なかでも1944年(昭和19年)8月20日、北九州市に来襲した米軍B-29爆撃機も撃墜しています。
高射砲陣地は残されています
米軍の爆撃機Bー29を、地上から高射砲の砲弾を命中させ、撃墜した名古屋市の高射砲陣地は、現在も残され、見学できます。実は、2回ほど見学に行きました。この公園には長生きで有名だった双子姉妹の「きんさん、ぎんさん」が植えた桜の木があります。
100歳の双子姉妹 きんさん ぎんさん
旧制大村中学校生徒による帝国海軍大村航空隊の見学
実は、この写真の中に、旧制大村中学の生徒だった私の父親がおります。
同時期、ゼロ戦のエースパイロット坂井三郎氏が、大村の海軍航空隊に配属されていた当時の記録があり、坂井三郎(さかい さぶろう)氏の著書「大空のサムライ」に書かれています。大村の片町や本町の表通りはもとより、裏道まで、すべて熟知されていたそうです。坂井三郎氏は、機動戦士ガンダムのアムロ・レイ、Zガンダムのカミーユ・ビダン、そしてZZガンダムのジュドー・アーシタのような、当時のニュータイプだったと思われます。
大空のサムライ 電子書籍版(ダウンロードしてすぐ読めます)
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紀伊国屋書店:大空のサムライ
なぜ坂井三郎氏が「大空のサムライ」と呼ばれるようになったか?
第二次大戦中ジャワ島(現在のインドネシア)で遭遇したオランダ人パイロットが、戦後、アメリカ軍に証言したことがきっかけ。以下の動画をご覧ください。
↓18分6秒より
坂井三郎とは?
ゼロ戦とは?
戦後30年 ゼロ戦エースパイロット 坂井三郎氏がゼロ戦を語る 昭和50年/1975
坂井三郎氏は、大村海軍航空隊に所属していた時期があり、大村・本町では名前が知られていました。本町の商店街の、当時5才の「まさこちゃん」という子供がなついていたそうです。ご存命なら75才くらいでしょう。また、出撃のときは、大村神社に参拝され、当時の大村での写真がたくさん残っています。坂井三郎写真集 大空のサムライ
左側の写真は、現在の市役所前、ジャスコの場所。以前は海で、海水浴ができ、潮干狩りができた。
さらに、同時期、大村で戦艦大和の最後の通信を受信した、海軍士官・森嶋通夫(もりしまみちお、後の大阪大学教授、ロンドン大学教授、英国アカデミー会員)氏の大村の記録が、著書「血にコクリコの花咲けば」に書かれています。
約50年前 大村高校1000日1000枚
ちょうど30回卒の方々の時に、3つの部が、大きく活動を始めました。
ブラスバンド部が音楽大学を出たばかりの植木先生により創部され、多数の方の尽力により写真同好会が写真部となり、長らく活動を休止していた漕艇部が息を吹き返しました。
写真部の初代部長となった先輩が、使命感に燃えて?私費でたくさんの写真を残されました。
大村高校1000日1000枚とは?
写真部初代部長も二代部長も、写真のみならず、当時としては珍しい私費で動画(当時はフィルムの8ミリで動画で、フィルム代+現像代という費用が発生した)も撮影されています。初代部長が、体育祭、修学旅行、高校総体などの動画を保存しているそうです。
フォトアルバム大村高校1000日1000枚 一部紹介
**フォトアルバム大村高校1000日1000枚はこちらです。
当時は、日教組(にっきょうそ、現在は民主党・社民党だが当時は共産党)の害悪がひどかった時代です。大村市内の小学校で、学校の先生が死亡したり、大村市内の中学校では、先生がストライキを実施し、授業を放棄し、学校が荒れました。先生方は、生徒を、なめていたのでしょうね。
それから、大村市内の中学校で、生徒が死亡する事件が発生しました。今もそのようですが、問題の責任は、学校の先生にあるのに、当事者の先生が誰も責任を取らないという悪い見本ばかりが児童・生徒の目に焼き付きました。教育長や先生が尊敬されなくなったのは、教育長や先生方自身に問題があるのです。
当時の日教組の先生たちは、卒業式、入学式での国歌「君が代」を廃止しました。そして、生徒に悪影響を与えました。そういう時代でしたといいたいのですが、まだ、長崎県のみならず全国で、先生方の変な言動や、中国・韓国を修学旅行先にする思想の植え付けが続いているようです。