*当時の錦絵(にしきえ):原田重吉、平壌の玄武門。玄武は北の方角を意味します。
日清戦争は、朝鮮を舞台に、日本と清(しん)国(現在の中国)が戦い、日本が勝利しました。
大村高校の前身・旧制大村中学の福田雅太郎(ふくだまさたろう)先輩は、日清戦争(1894年〜1895年)に第一師団副官として出征されました。
*司令官と副官3名
大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。大村中学校、有斐学舎を経て、1887年7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。1893年11月、陸軍大学校(9期)を卒業。
日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、参謀本部員(編制動員班長)、兼陸大教官、兼大山巌元帥副官、オーストリア公使館付を経て、日露戦争に第1軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前は、田中義一、秋山真之らとともに対露早期開戦派であった。
福田雅太郎先輩のエピソードとしては、旧制大村中学卒業式の前日、本町で警察官となぐりあいの喧嘩(けんか)をしてしまい、卒業式に出席できなかったということが伝わっています。
福田雅太郎先輩は、その後、帝国陸軍トップの陸軍大将に昇進。陸軍大将時代に、大村に帰省(きせい)され、鶴亀橋で撮影された写真が残っています。
また、関東大震災時には、帝都東京の治安維持責任者でした。朝鮮人の放火や殺人などに立ち向かわれました。
台湾軍(日清戦争〜第二次大戦まで、台湾は日本領)司令官だった福田先輩のこと。
その後、大村高校からは、防衛大学校に進学され、防衛大学校一期生として陸上自衛隊のトップ(陸上自衛隊幕僚長)となった志摩先輩を輩出しています。
志摩先輩の動画あり
大村には、現在、陸上自衛隊駐屯地のみならず海上自衛隊基地もあります。
帝国海軍で活躍された大村の先輩
帝国海軍で二式大艇、紫電改を開発された大村高校の先輩