**数学する人生 岡潔(おかきよし)著より
学校には校風があります。どういう経緯で学校ができ、どういう人が卒業生として出たのかで、校風による影響がわかります。
たとえば、大村は、江戸時代に自由がありました。自由にはルールがあります。キリスト教を信仰してはいけない、殿様、徳川将軍、朝廷(現在の皇室)を批判してはいけないことなどです。最低限のルールを守れば、あとは自由がありました。つまり、心の自由がありました。だから、大村では江戸時代から、学問や実業を志す人が出続けています。
ところが、諫早はそうではありません。佐賀藩の植民地でした。弾圧されていました。自由な思考ができませんでした。心の自由がなかったようです。だから、文学で気をまぎらわせました。佐賀藩は、そういう統治をしました。そういう理由で、諫早では、いまだに、文学を志す人が出ます。長崎市も同様です。
ほか、長崎市の文化は単調なのです。大阪と同じで、地元の武士がいません。よそからきた武士による限定的な自治で満足する商人によるもの。
武家と商人の多様性のある文化は、大村もそうですが、博多(商人が博多で、武家が福岡)、名古屋、その他の城下町がそうで、大阪や長崎とは違うように思います。
ただ、大阪は古くからの神社仏閣がありますが、長崎市は江戸時代以前の文化が何もありません。大村は弥生時代から人が住み続け、朝廷による条里制や三世一身法など、古代の日本の歴史につながっていますが、長崎市はつながっていないようです。
さて、校風で志望校選びをした話がでていた本を見つけましたので、紹介しておきます。
大村高校応援歌は、戦前の旧制第一高校(現、東大教養部)と、旧制第三高校(現、京大教養部)に進学した先輩が持ち帰ったものが残っています。夏休みなど、休みに帰省した先輩が口述で教え、節回しがほぼ同じで、歌詞が替え歌になっています。
たまたま、一高の自治をあらわした歌も、三高の自由を表現した歌も、両方ともに旧制大村中学を経て現在の大村高校の応援歌に取り入れられています。
一高(数学する人生より引用)
*資料:神奈川県立公文書館より
さて、ここで、まず旧制一高(東大教養部)の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の動画を視聴いただきながら、音楽にあわせて大村高校応援歌「三艇の賦(さんていのふ)」の歌をうたってみてください。節回しが、ほぼ一致します。
伝承通りに、「三艇の賦(さんていのふ)」は、旧制一高に合格した大村の先輩方が夏休みに帰省し、東京の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の節回しを大村に口伝(くでん)したということが、おそらく立証されると思います。
*旧制一高(東大教養部)の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の動画
*旧制大村中学(大村高校)「三艇の賦(さんていのふ)」歌詞です。
三高(数学する人生より)
大村高校「壮行歌」は、旧制三高(京都大学教養部)の「紅萌(くれないも)ゆる岡の花」だと思います。
「紅萌ゆる岡の花」は十一番までありますが、大村高校壮行歌は三番までです。旧制三高に進学した大村の先輩方も、さすがに十一番までは詩文が創作できなかったのだと思われます。
*読み方
1.男子(だんし)一度(ひとたび)立たん時
2.風雲 逆巻(さかま)き襲いきて
男子(おのこ)の脾肉(ひにく)
3.悠久(ゆうく)の義に生きんかな
大村高校には、旧制高校文化である一高の自治の精神も、三高の自由な精神も、二つのDNAがちゃんと入っていて、現在まで残されていたんですね。