たった一人で200人以上のアメリカ軍人を斃(たお)し、勇敢さをたたえられた帝国陸軍軍曹

知らない人もいると思うので紹介しておきます。部隊ではなく、個人としてただ一人戦史叢書(せんしそうしょ)に掲載された人物です。具体的には、戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』です。

戦史叢書とは?

防衛省による戦史叢書(せんしそうしょ)概要(PDF)

部隊ではなく、個人として戦史叢書にただ一人掲載された舩坂弘(ふなさかひろし)氏戦歴の抜粋(ばっすい):

米兵を200人以上殺傷。米兵から鹵獲(ろかく)した短機関銃で数人斃(たお)し、左足と両腕を負傷した状態で銃剣で一人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう一人に銃剣を投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神を泣かしめる奮戦をした。

部隊壊滅後、敵将に一矢報いんと手榴弾六発、拳銃一丁を持って米軍指揮所テント群に数夜をかけて潜入した時には、すでに左大腿部裂傷、左上膊部(でんぶ)貫通銃創(かんつうじゅうそう)二箇所、頭部打撲(だぼく)傷、右肩捻挫(ねんざ)、左腹部盲貫(もうかん)銃創(じゅうそう)を負っていた。

突入してきたこの異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったという。舩坂は前哨陣地を単身突破し、米軍司令部を目指し突入するも頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。

この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。弘の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

しかし、舩坂は3日後に米軍野戦病院で蘇生する。ペリリューに身柄を移されて2日目には、重傷を負っているにも拘わらず捕虜収容所から脱け出し、米軍弾薬庫の爆破に成功している。

死にそうになっては生き返り、しかも米軍からは勇気をたたえられた軍人。戦後、精神主義は悪だと教えられてきましたが、精神的な強さがなければ生き延びることはできなかったと思います。

生きて日本に帰り、戦後、渋谷で大盛堂(たいせいどう)書店を開業。大盛堂書店、東京で大学生活をした人なら知っていると思います(現在は閉店)。

スポンサーリンク
レクタングル大広告

【このページの情報を拡散する】

スポンサーリンク
レクタングル大広告