↑トム・クルーズによる渋谷区のふるさと納税キャンペーンポスター(都内、地下鉄で撮影)
大村市の財政健全性
指標を見て、大村市の財政健全性があきらかになっています。
人口が増加しているのは県内で大村市だけ
人口が増加している都市は、長崎県で大村市だけです。
全国の人口増減でも大村市はランクイン
ソース:全国の人口増減
九州内で人口が増加しているのは、福岡市とその周辺都市(大野城市、糸島市など)と長崎県の大村市だけです。
富裕度でも大村市は長崎県で1位という事実
富裕度も県内一位です。ソースはこちら。
住みよさでも、大村市は長崎県で1位です
さらに長崎県で、若さで1位なのが大村市です
長崎県の生産年齢人口割合:大村市が1位
生産年齢人口(15歳〜64歳)の割合は大村市が長崎県で一番です。
ソース
つまり、「大村市が長崎県では、1番若くてイキイキした都市だ」ということ。
なんでも1番だと、ウソの価値観を押しつけてきた長崎市は、さまざまな指標により、実はたいしたことがない都市だという事実が判明します。
老年人口割合
65歳以上の割合:
この指標は高齢者が多い順番ですから、最下位が一番いいのです。大村市が1番若いのです。ソース
後期高齢者人口割合
75歳以上の割合
この指標も高齢者が多い順番ですから、最下位が一番いいのです。大村市が老人ランクで最下位ですから、大村市が長崎県で若さで1位の都市だということです。ソース
これまで長崎県庁が押しつけてきたウソの価値観を捨てよう
これまでの長崎県の学校が押しつける価値観だと、ただ「人口が多いところがすばらしいのだ」、だから、「長崎市は人口が県内で一番なので、なんでも長崎市が1番だから、何も考えずに長崎市を無条件に尊敬しろ」、みたいなものでした。
今後は、さまざまな情報と指標をみて、長崎県庁と長崎県教育委員会にだまされないように、事実を知り、各自判断されたほうがいいのではないかと思います。
いつのまにか倒産した長崎の企業18
注意:大分弁が混ぜられていて、九州に対する無知な部分があります。
さて
大村市が安定している理由
大村市が安定している理由は、歴史的なものです。
長崎県庁と長崎県教育委員会は、わざとか、あえてか、この事実を教えないのですが、知っておいたほうがよいです。
知っておくべき事実
知っておくべき事実とは、大村は994年から1000年以上も領主が変わらないで、現在も続いていることです。九州で長くから途切れることなく続いているのは、大村と薩摩の2つだけ。鹿児島(薩摩)の始まりが1185年からですから、薩摩の島津家より、肥前の大村家のほうが191年(約200年)ほど古いです。
九州で最も古くから続く土地柄であることを、長崎県教育委員会も長崎県庁も、知ってか知らずか、決して教えないので、県庁職員や県教育委員会より詳しくなっておきましょう。
肥前・大村家と薩摩・島津家
大村家
日本百科全書より引用
A.D.(西暦)994年(正暦5)藤原直澄(なおずみ)(大村直澄)が久原城に入部して以来、約1000年の歴史を有する大村藩2万8000石の城下町で、その間居城は久原城から1564年(永禄7)三城へ、さらに1598年(慶長3)玖島城(くしまじょう)に移ったものの1000年近くも領主の変わらない城下町はきわめてまれな存在であろう。
島津家
Wikipediaより引用
島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[4]、近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日、文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。
なお、1884年、旧制大村中学(現、大村高校)を開校した大村純雄(おおむらすみお)伯爵は、薩摩の島津家から大村に入られました。つまり、大村家と島津家は親戚になっています。
県内各市を比べてみる
比べておきます:
諫早市
諫早(西郷氏)は、戦国時代に、豊臣秀吉に逆らったために、豊臣の代理人・佐賀に滅ぼされました。江戸時代は佐賀(鍋島)の植民地でした。諫早は、佐賀に外交文書など、重要な書類はすべて焼かれてしまい、諫早には正確な歴史が残っていません。
そして、言葉が支配者の佐賀弁に変えられてしまいました。今でも諫早の言葉が佐賀弁で、違うのは、佐賀に支配されたからです。
例:おいで(標準語)→こんね(大村・長崎)→きんしゃい(諫早・佐賀)
長崎市
長崎氏は、大村の家来で、兄の長崎甚左衛門は、大村純忠の娘と政略結婚させられましたが、長崎甚左衛門(じんざえもん)の領地は、大村に没収され、領地がゼロになり、長崎氏は滅びます。長崎弁と言いますが、ベースは大村弁です。もともと大村領ですから。
兄の長崎甚左衛門は滅びたが、弟の家は大村で、今もつづいている
甚左衛門の弟は、大村純前(すみあき)公の家来として、豊臣秀吉が命令した朝鮮出兵に出陣します。帰国後は、大村藩の土木担当として働きました。兄の長崎甚左衛門は滅びましたが、甚左衛門の弟の長崎家は、大村で現在も続いています。
大村の先輩方は知っていた
なお、大村の先輩は昔から、長崎市を、ただの「県都」、とだけ表現しています。
歴史を知っている人なら、長崎市はたいした歴史がない町、そして、大村純忠公がいなければ、長崎に町はできておらず、海辺の、ただのジャングルに過ぎなかったことを、先輩方はご存じだったのでしょう。
歴史的事実を隠すため、長崎歴史文化博物館は、ごまかした記述をしていますので、長崎市の歴史家たちが、大きな声で主張するウソの歴史にだまされないようにしましょう。
【在校生向け】織田信長と大村をつなぐルイス・フロイス 3:大村純忠公を暗殺しようとした諫早、そして日本初公開のルイス・フロイス書簡集