日本の場合、皇室以外に古代から現在まで続いている家系がいくつもあります
対比すれば、シナの中華では紀元前から、異民族の侵略、そして新王朝による前王朝関係者を皆殺しする伝統。女・子供も含め、幼い子供であっても一族は全て容赦(ようしゃ)なく皆殺しされてしまいます。したがって、続いている王家というのは一つを除いて、ありません。
唐の前、日本では聖徳太子の時代、小野妹子(おののいもこ)など、遣隋使を派遣していた時代、隋(ずい、581年〜618年)という王朝が滅びるときに、皇帝・煬帝(ようだい)の血を引く幼い子供たちを集められ、首をはねられ、殺されています。王妃(王さまの奥さんの一族)も皆殺しです。日本とは違う、強烈に残酷な民族が支那(シナ)大陸の中華です。(ソース:隋の煬帝)。
続いている
日本が満洲国皇帝として保護した清王朝の愛新覚羅[あいしんかくら=アイシンギョロ]家のみ。愛新覚羅家は、シナ人の漢民族ではなく、満洲民族、正確には建州女真と呼ばれる女真(じょしん=ジュルチン)族です。明(ミン)から清(シン)に王朝が変わった時も、例外なく、前王朝である明(ミン)の一族は清(シン)により皆殺しされました。
愛新覚羅家の子孫たち
昭和天皇と満州国皇帝
漢民族の王朝とは?
漢民族の王朝は漢(かん)、宋(そう、「靖康[せいこう]の変」で女真族の金に圧迫され南宋に縮小)、そして明(みん)だけで、あとはすべて異民族による支配が中国の歴史の実態。隋(ずい)は北方モンゴル系、唐はイラン系、元はモンゴル系など。
五胡十六国(5つの異民族が16国を建国し興亡)時代や五代十国時代など、すべてがシナの中華世界における異民族の攻防です。
世界史図表より
浜島書店 新詳世界史図説より(ただし、以下の写真は新版ではなく、大村高校時代に授業で使用したもので、古いです。新版をご確認ください)
前漢
キングダムで描かれたシナの中華統一を成し遂げた始皇帝。始皇帝の死後、宦官だった趙高(ちょうこう)が裏切り、信(キングダム)の仲間だった蒙恬(もうてん)を自殺させ、丞相の李斯(りし)を腰切りの刑で殺害。しかし、趙高も殺され、農民の陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)が反乱をおこし、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が台頭し、劉邦が統一し、国名を漢としました。
宋(ソウ)
[大理というのは、建築に使う石が取れるので大理石の語源になった国]
明(ミン)
明の鄭氏と交流があったのが平戸。オランダから台湾独立を掲げた鄭成功の母親は平戸の人でした
鄭成功のお父様を含め、一族はすべてが、明(ミン)の後の清(シン)により、皆殺し。清(シン)から、「降伏すれば裕福な生活をさせてやる」ということを言われ、言葉を信用し、降伏したら、一族は、皆殺しにされました。シナ人(中国人)とはそういうもの。
朝鮮半島の運命
半島は、民族がすべて入れ変わってしまう地理的宿命があるようです。具体例としては、現在のギリシアは古代ギリシア人とは民族が違いますし。同じように、朝鮮半島は、民族ごといれかわってしまい、現在の朝鮮民族は、古代の朝鮮民族とは違うのです。
王朝がかわるごとに、前王朝の技術者や職人、それに学者は皆殺しにされるので、技術の伝承がないのが、中国・朝鮮半島の特長です。
神話だからウソだと否定する教員と宇治拾遺(うじしゅうい)物語
さて、日本書紀や古事記という日本神話を、神話だからウソだと否定する教員がいると思います。最近研究がすすんでいるので、調べてみるとよいと思いますが、宇治拾遺(うじしゅうい)物語という古典があります。
この話は物語となっていますが、物語ではありません。当時としては80才という長寿の老人が、大和朝廷に献上した意見書なのです。内容は、古事記・日本書記を編纂(へんさん)するときに、漏れてしまったことが書かれている書物です。
宮崎県の高千穂で、天照大神(あまてらすおおみかみ=女神)が天岩戸(あまのいわと)にお籠(こ)もりになられたときに、天岩戸の外側にいたメンバーの天太玉命(あまのふとたまのみこと)の子孫である中臣氏は、なんと、古代から明治になるまで伊勢神宮の宮司(ぐうじ=神主)トップをつとめられました。
日本神話 天の岩戸
*学研の図鑑LIVE 星と星座より
天の岩戸におこもりになられたときに日食がおきました。日食を知らない人へ:日食とは?(国立天文台)
中臣氏のライバルだった蘇我(そが)氏や物部(もののべ)氏は滅んでいます
明治政府が、神主の世襲制度を廃止したので、現在は伊勢神宮のトップはされていないようです。
また、天岩戸の外側にいたメンバーは、奈良時代まで、普通に宮廷に勤務されていたことが、宇治拾遺(うじしゅうい)物語に書かれているのです。
興味がある方は、読まれることをすすめます。神社検定用の本なのですが、内容が専門家でなくてもわかるように、やさしく書かれているのでおすすめします。
一般の本は難解なので。
ヨーロッパでは
ところで、ヨーロッパでは、ホメロスによる古代の叙事詩イリアス・オデッセイが、ウソ話だと思われていました。紙がない時代の話が、吟遊詩人たちによって、1000年以上伝えられていましたが。
シュリーマンについて
その神話がウソ話ではなく、多少の誇張はあるにせよ事実であったことを立証したのがシュリーマンという商人で、幕末に日本にやってきています。
シュリーマンは私費を投じて、ホメロスによる古代の叙事詩(つまり神話)イリアス・オデッセイに書かれた場所を発掘したところ、関連する遺跡が見つかったため、古代の話がウソではないことが実証されました。
シュリーマンのこと
日本の古事記
日本の古事記も、紙がない時代の話です。代々稗田家の稗田阿礼(ひえだのあれ)が、古代から続いていたことを暗唱していたものが紙に書かれたものです。
日本では、明治時代、古事記・日本書紀にかかれた、古代の武器庫の場所を掘ったところ、記述されたように、古代の武器が大量に出てきようです。多少の誇張はあるかとおもいますが、神話(日本の場合、古事記・日本書紀と記紀から洩(も)れた話を扱った宇治拾遺物語)は、事実の部分が多いのではないかと思います。
八岐大蛇(やまたのおろち)
八岐大蛇(やまたのおろち)のように、頭が8つの大蛇はいなかったおもいますが、ときどき突然変異で、頭が2つの蛇はいますから、その話をふくらませたのでは?と思います。
今のようにメディアは発達していない古代は、ゼロから話をつくりあげることはなかなかできなかったように思います。したがって、ある程度の事実があって、神話が完成されたのではないかと思います。
神話時代の大村
大村という名前がなかった古い昔の大村のことは、古事記・日本書紀にはでていませんが、肥前風土記に書き残されています。玖島(くしま)という地名は景行天皇が名付けたと書かれています。
日本で書物が焼失した大きな戦乱は応仁の乱(おうにんのらん:1467〜1477A.D.)です。各地方のことが書かれた風土記は5つしか残っていません。幸い、肥前風土記(ひぜんふどき=長崎県、佐賀県)が、応仁の乱という11年も続く戦乱でも焼けずに残ったため、古代の大村や長崎県の領域に関してのことを調べることができるのです。
古代の日本につながらない長崎市の領域
古代の書物には、長崎市の領域のことはまったく出てきません。長崎市は古代の歴史につながっていません。大村市と東彼杵の領域は古代につながっていることが肥前風土記でわかるのです。
長崎市は、江戸時代以前の歴史がありません。大村純忠公が開港するまでは、大したことがなかった集落(長崎は「弱勢の集落」とルイス・フロイスの日本史に出てきます)が現在の長崎市だったというのが史実です。
長崎市は本当は大したことがなかったという史実が知られたら困るのか、実際、長崎県内では「なんでも長崎が一番だ」というウソの刷り込み教育がおこなわれているので、その点は長崎県庁、長崎市の歴史家たち、そして長崎県教育委員会が出すウソにだまされないようにしたほうがよいと思います。