【在校生向け】大村高校と日本の法律、そして一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう)先輩

日本の法律はどうやってできたのでしょうか?

法律はどうやってできたのでしょう?考えたことはないですか?

誰かが考え、その考えをもとに、文章化し、できあがったものです。誰かが考えたから、できあがったのです。誰なのでしょう?どうやってできたのでしょう?思考停止しないように。

法学部に進学した人なら、ボアソナードという名前はご存じでしょう。高校生や、教育学部卒の先生は知らないでしょうね。民法も刑法も、明治時代のものが口語訳され、変更はあるものの、原型をとどめるかたちで、現在も使用されています。

そのボアソナードの門下生に大村の人がいたことは知らないと思われますので、紹介しておきます。

現在用いられている日本の法律は、明治の始めに、最初は、フランス人ボアソナードにより起草(きそう)されました。

ボワソナード
ボワソナード(ボワソナアド)は、日本の法律の父と呼ばれています。

岩波新書 ボワソナアド

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画像出典:法政大学現代法研究所

ボアソナードから直接教えを受けた一期生のうち一名が、大村高校の前身・五教館出身の一瀬勇三郎(いちのせ ゆうざぶろう)先輩です[江戸時代・安政元年生~昭和7年没/1854年~1932年]。

一瀬勇三郎

大村市佐古(現、三城小学校校区)で生まれ、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)で成績が優秀だったので、大村藩(長崎県ではなく、大村藩です)の推薦で、東京の明治政府・司法省法律学校へ進学。

*司法省 法律学校の入学者に一瀬勇三郎(いちのせ ゆうざぶろう)先輩の名前があります。

司法省法律学校入学者

司法省法律学校入学者

一瀬勇三郎(いちのせ ゆうざぶろう)先輩は、司法省法律学校卒業後、明治大学でフランス法を講義し、裁判官、関西大学第三代学長となり、老人になってからは大村に戻り、余生をすごされました。日本の法律形成過程において、大村の先輩も関係がありました。

一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう)先輩が、明治大学の創立直後・明治14年9月から1年間にわたって、明治大学でフランス法の講義していました。
明治大学ホームページに出ている大村出身の一瀬勇三郎先輩
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ほかに、大村高校東京同窓会の前身である、五教館東京同窓会で、一瀬先輩は、幹事役を長い間務められました。

黒門

大村の五教館出身者は、

  1. 医学の長与専齊(ながよ せんさい:東大医学部設立に貢献、息子の長与又郎は東大総長)
  2. 物理学の長岡半太郎(ながおか はんたろう:東北大工学部設立、大阪大学初代総長)
  3. 法学の一瀬勇三郎(いちのせ ゆうざぶろう:裁判官、関西大学三代学長)
  4. 農学の南鷹次郎(みなみ たかじろう:北海道大学初代農学部長、北海道大学二代総長)
  5. キリスト教伝道者の熊野雄七(くまの ゆうしち:明治学院大学創設メンバー)

など。今後も随時紹介してゆきます。

長崎県は、大村の五教館を一切認めていません。それは、長崎県が設立される前のことだから、長崎県の前に、大村から立派な人がでたことは一切認められない主義なのだそうです。長崎県の小さな考えに負けないように、当ホームページはしっかりと今後も解説してゆきます。
——–
追加ですが、日本の法律の父と呼ばれるボワソナアドは、日本と支那(当時は清[しん]国)が仲が悪いことを知っていたようです。そして、その原因は、支那(当時は清国、今は中華人民共和国)のほうにあることをつきとめていたようです。

今も昔も、状況は変化していません。

*新書「ボワソナアド」より

*新書「ボワソナアド」より

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