*写真:奈良で有名な三輪そうめんなのですが、製造が長崎県の島原(西有家)でした。お店は、奈良で由緒正しい三輪そうめんのお店、三輪山本で撮影。
*三和そうめんに関して:
なぜ、長崎県で、島原だけがそうめんの製造地だと思ったことはありませんか?島原がそうめんの製造地になったのは、実は島原の乱からなのです。
少し省略して書きます。
島原半島は、戦国時代、有馬家が統治していました。有馬家と大村の大村家は親戚でした。
島原の有馬家から大村の大村家に養子に入った大村純忠公は、キリスト教に入信し、ジャングルだった長崎村を港として開港し、ポルトガル人宣教師を優遇しました。ポルトガル人宣教師は日本国内で布教活動とスパイ活動を合法的におこなうために、実力者である織田信長に岐阜で謁見して許可をもらいました。
*織田信長の岐阜城内の展示物です:ちゃんと大村純忠公の名がありました。
島原でもキリスト教の布教で入信者が増加。加津佐にはセミナリオ(英語だとセミナー、ドイツ語だとゼミナール)というキリスト教の学校まで建てられました。
そして島原の乱が発生。島原の乱は、スペインとポルトガルの日本支配を打ち砕くために、必要だったと考えられています。この乱で、多数の島原半島の方々がなくなりました。
口之津や加津佐では人口がゼロになりました。その他の島原半島の各地域でも、人口が減少し、農地が荒れました。そこで、人口が増加していた瀬戸内海の小豆島から島原半島に入植が開始され、小豆島の方々のそうめん製造技術が持ち込まれ、現在も続いているようです。
佐賀に300年近く植民地にされた諫早が、佐賀弁を使い、慣習や風習が違うように、島原の慣習・風習が異なるのは、このことが原因のようです。
*知らない人へ :島原の乱 解説動画
リンク先には支那(シナ)の明(みん)国・福建省伝来説が書かれていますが、強引なこじつけのような気がします。なぜなら、明国人が多数住みついていた博多では、そうめんが発生していないからです。
また口之津・加津佐は、島原の乱の前、にぎわっていたと書かれていますが、島原の乱で、口之津・加津佐の人は全員が、乱の犠牲者となり、亡くなってしまい人口がゼロになったので、島原の乱以前にすみついたシナの明国人による伝来説のほうが信憑性がないように思います。
島原そうめんの歴史より
移民政策
島原の乱後、島原南部と熊本天草にはほとんど農民がいなくなってしまい人口が激減したため、幕府は各藩に強制的に人数割をして農民を移住させました(公儀百姓)。また移農民は非常に優遇されたため、その後近隣の諸から非合法に流入してくる者(走百姓)も多くいたといわれます。当時島原4万石の内、2万2千石は亡者の地であったといわれています。
島原半島の各地区・集落の姓名を調べると、集落ごとに同じ姓・家紋が多く、その歴史・名残がわかります。
島原そうめんのルーツに「移民説」がある。乱後の移民政策により幕府直轄領、讃岐国・小豆島より移住してきた者の中に手延素麺の技術を持った者がおり現在に伝えた(讃岐国・小豆島伝来説)とされています。現存している島原の歴史資料に「高橋権寿が挽き臼で小麦を製粉しそうめんを作る・・・」という記述が残っていることから、小豆島からの移民「高橋」氏と重ならせたもの。と言われています。
しかしこの説は古文書等により検証されたわけではなく、民話風に語られているものであり、様々な資料を検証すると不合理な点が多いとされます。後の島原そうめん業者が首都圏に売り込みを図るため、有名名産地「小豆島そうめん」ブランドの名を借り「ルーツは小豆島だ」と言って売り込んだ。とも言われています。
小豆島からの移住者姓
八木氏~北有馬地区へ
大崎氏・七条氏・林田氏~南有馬地区へ
高橋氏~口之津地区へ
酒井氏・松藤氏~加津左地区へ
井上氏・三宅氏・三木氏・山本氏・小笠原氏・渡辺氏・岡本氏・猪子島氏~南串山地区へ(小豆島から一番多くの戸数が移住した)。