学校の先生の仕事内容は、ほかの人が作成した教科書を教えることが主。ゆえに、「調べる能力、発表する能力、そして証明する能力が磨かれない」と、いうふうな性格になっていくように思います。
また、学校の先生は視野が狭くなる職業ではないかと思います。目下(めした)の生徒相手に、閉じ込められた職場ですから。
大村高校時代、英語の先生も、地理の先生も、「昔のことだから、ウソだろう。証拠がない。玖島城の石垣は加藤清正の影響のわけがない」みたいなことを授業中に話していらっしゃっいました。
大村高校時代の、先生の一人はなくなっていて、もう一人はご存命なのですが、この先生方は両者ともに、調べる能力がなかったのだと思います。
*現在も名古屋の町に鎮座する織田信長公(名古屋市 円頓寺商店街)
本来は、織田信長が明(ミン)国の制服をもくろんでいましたが、京都の本能寺で暗殺され、その意志を豊臣秀吉が受け継ぎ、朝鮮半島経由で明に向け侵攻しました。その時の日本軍の司令官が、加藤清正と小西行長です。
日本、明(ミン)、朝鮮の位置関係
大村は小西行長の一番隊でした。文禄の役のときも慶長の役のときも、大村からは大村喜前(よしあき、大村純忠の息子)公以下1000名が出兵しました。
名古屋市秀吉清正記念館パンフレットに掲載されている慶長の役(1597年)陣立(じんだて)書という書面。朝鮮出兵のさいに、大村からは千名が出兵(上段左から二番目)。いとこの島原の有馬は二千名(上段左から三番目)。さすがは小西行長公、七千名も。
*関ヶ原の前、朝鮮出兵時の加藤清正公
朝鮮半島を一気に制圧し、満州の女真族にも恐れられた加藤清正公。中学・高校の教科書には日本がボロ負けしたようなウソが書かれています。
しかし、史実は、日本の朝鮮制圧で、明(ミン)の属国だった朝鮮が明に救援を求めたため、明が援軍を派遣(しかも大軍、2軍ではなく1軍)。そのため、明が大幅に国力を消耗し、満州の女真族(後のヌルハチの後金国→清国)が台頭し、明滅亡の遠因になっています。
さて、名古屋城は、関ヶ原の決戦の後、天下を統一した徳川家康の命令で、各大名が、それぞれ分担して、石垣を築造していて、担当者ごとに、石垣の積み方が異なっています。記録が残っているため、石垣を見れば、後世の者にも、誰が担当し築造された石垣かわかるのです。
そこで、大村の玖島城と、加藤清正や他の大名が担当した名古屋城の石垣を比較してみました。
*名古屋城 天守の石垣
*玖島城
*まだ、玖島城の石垣と、名古屋城天守の石垣を比較して、似ていると気がつかない人へ
名古屋城:左半分が加藤清正公、右が他の大名が担当。指揮した大名による石垣の違いがわかると思います。石垣の石の積みかた、エッジの反(そ)り具合が証拠です。
名古屋城に行ったときに、昔、大村高校の先生が授業中にブツブツ文句を言っていたことを思い出しました。その当時、高校の先生方は文句を言うだけ。つまり、足も頭も使わずに、ただ口だけでしたので、高校の先生方にかわり、かつて生徒だった私が、大村高校の先生が証明できなかったことを、軽く証明してみました。
[証明終]