672年:胸にグサリと壬申の乱 >>胸に;む=6、ね=7、に=2
壬申の乱は、日本の古代における最大の反乱でした。壬申の乱、知らないひとは、調べて知っておくほうがいよいでしょう。
壬申の乱は、663年に唐(とう=当時のシナ大陸の王朝)+新羅(しらぎ=滅びてしまった朝鮮の王朝)連合軍と、日本+百済(くだら=滅びてしまった朝鮮の王朝)が戦い、日本が負けた白村江の後に発生しました。
この当時、長崎市・佐世保市の領域は人が住めないジャングルです。長崎市・佐世保市に古代の歴史はありません。
大村は、すでに大和朝廷から役人が派遣され、朝廷の力がおよんでいました。その証拠にあたるものが、長崎新幹線・新大村駅工事現場付近から出土しているようです。
「壬申の乱」というと、何だか遠い昔で、今とは何もつながりがないように感じられますが、1600年に東西決戦がおこなわれた岐阜(ぎふ)県・関ヶ原(せきがはら)には、ほぼ、当時のまま残っていました。
*大海人皇子(おおあまのおうじ)軍と大友皇子(おおとものおうじ)軍が、川をはさんで対峙(たいじ)した場所で
地図で探す場合:
江戸時代の中山道(なかせんどう)不破関(ふわのせき)付近です。
Google mapより
長崎県は、長崎市自体が、たいした歴史がなく、古代の日本の歴史につながらないため、古いことや伝統があることを大切にしないようです。
九州では福岡県・熊本県・宮崎県を初めとして、他の地域では、古いもの伝統があるものが、そのまま残されていることが多いです。長崎県や長崎市は、長崎市以外の伝統あるものに対して敬意を払わず、無視したり、いやがらせをしてきた事実があります。
ゆえに、これからの時代、大村では、歴史教育に関しては、長崎県や長崎市のやり方を決してまねしてはいけないと思います。
関ヶ原に関して:関ヶ原の合戦(かっせん)時、大村はどうしていたのか?そして、それがどのように大村高校に影響しているのか?