【大村高校の歴史】3-2 五教館教育の成果と明治維新
慶応三年(1867年)王政復古(おうせいふっこ)の宣言のもとに成立した新政府は、欧米の近代文化を導入し、我が国教育の近代化を進めるために教育の普及と制度の確立を目指した。特に一般国民に対する小学校の設置は早くから進められた。
藩校の五教館でも明治2年(1869年)、文館の改革を行った。それまでの寮生を大学生、表生を大学亜生と小学生などと改め、その他の組織改革を行った。
明治2年(1869年)、版籍奉還(はんせきほうかん)により大村藩知事に任命された大村純熈(おおむらすみひろ)は職制改革を行い、明治3年(1870年)から4年(1871年)にかけて、藩立の小学校を
福重(ふくしげ)村(35人)、
千綿(ちわた)村(51人)、
鈴田(すすた)村(30人)、
上波佐見(かみはさみ)村、長浦(ながうら)村、式見(しきみ)村、川内(かわち)村(80人)、
川棚(かわたな)村、
七つ釜(ななつがま)村
の九カ村に設けた。
しかし、それらの小学校は「学制」制定によって発展的解消をみた。
明治4年(1871年)7月、大村藩は廃藩置県(はいはんちけん)により、大村県となり、続く11月の統廃合により長崎県に統合されることになり、大村藩はその形骸(けいがい)のみを残すだけとなり、翌明治5年、二百年の歴史を持つ五教館も11月に廃校となった。
五教館で教育を受けた大村人は枚挙(まいきょ)にいとまがないほどである。
嘉永(かえい)・安政(あんせい)期に学んだ
渡邊清(わたなべきよし)・渡邊昇(のぼり)兄弟、
楠本正隆(くすもとまさたか)、
長与専斎(ながよせんさい)等の維新の功労者。
維新前後教育を受けた岩崎小二郎(いわさきこじろう)、
早稲田大学に残る岩崎小二郎先輩の文書
大蔵官僚(現在の財務省官僚)だった岩崎小二郎先輩が、大蔵大臣(今の財務大臣)・大隈重信(おおくましげのぶ、早稲田大学創立者)にあてた手紙原本全文は早稲田大学アーカイブにあります。
横山寅一郎(よこやまとらいちろう)、久原一丁目の前船津出身
旧制大村中学校長から、長崎市長、衆議院議員となった横山先輩。
南鷹次郎(みなみたかじろう)、
沢山精八郎(さわやませいはちろう)、
*長崎市の澤山グループ創始者。久原一丁目の前船津出身、南鷹次郎先輩と幼少のころから大村高校の前身・五教館(ごこうかん)で同期
一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう)、
日本の法律の父・ボアソナードから直接教えを受け、司法分野で活躍
国立第四高等学校(現、金沢大学)学長から法政大学学長
熊野雄七(くまのゆうしち)、
明治学院大学創設メンバー
*写真出典
また五教館が終焉(しゅうえん)に近づいた最後のこの門をくぐった長岡半太郎(ながおかはんたろう)など、
政治、経済、文化、教育、軍事にいたるまで、五教館の成果はまことに顕著である。
続く