本なんて読む必要はないと思っているかもしれない。読みたくない人は、よまなくてもいいし。自由だ。
ただ、あなたは、まだ何も知らないと思う。何も知らないから、面倒くさい読書なんてしなくてもいい、と思っているのかもしれない。
さて、何か決断するときに必要となるのは、情報です。人(ライバル)より優位な立場にたって物事をすすめていくときに必要なのも、情報です。
実は、情報は、文書や文としてやってきます。音声が文になっていたり、映像が文になっていたりします。つまり、重要な情報は、たいていは文としてやってくるのです。
もう、わかるでしょう?まだ、わかりませんか?
つまり、本を読むことは、情報をすばやく入手して、処理して決断する基礎トレーニングの一つなのです。このことを知っているか知らないかの差は大きいのです。気がついていない人のほうが多いんですよ。だから、他人には、「本を読め」なんて強制はしないんです。
したがって、わかっていない人のほうが多いので、わかっている人がいつも優位な立場に立てるのです。だから、情報を持っていない(入手して処理する能力のない)人は、いつも情報を持っている人から、あやつり人形(マリオネット)にされてしまうのです。
誰も教えてはくれませんが、読書という基礎トレーニングを10代からしておかなければ、スポーツの基礎トレーニングと同じで、脳の回路が動かないようです。将来、あやつり人形にされたくないなら、読書が必要になってくるでしょう。
もう終了はしましたが、ゆとり教育世代は、漢字が読めなくて、読書を避ける人が増えてきたため、あやつられやすい人も増えてきたように思います。少数のあやつる人と、多数のあやつられる人。情報を入手して理解できるかどうかで、大きな格差が生まれているんですよ。
だから、高校・大学時代に読書の習慣が身につくかどうかで、あなたが、どちらのグループになって人生を送るのかが決まってゆくような時代になっているんです。
どちらのグループがどうなのか?どうなるのか、新しい経済学の本が解説してくれています。
ところで、大卒や院修での就職試験の第一関門であるSPIテストは、長い文章が出題され、高校・大学時代に本を読む習慣が身につかなかった人は、高得点で突破できないようになっています(このテストは、受験国語のテクニックが通用しない問題として作成されています)。
高校生や大学生の場合、「いま必要ではないから、しなくてもよい」ことに読書は該当しないと思われます。この10年で、その前の10年とは大きく変わり、長文の読み書きが必要な時代になっています。たいてい、20代後半や30代になっても、長文が書けない人たちは、たいていが10代から読書をしてこなかった人なのです。読んでいなければ書けないですから。
また、もう一つの真理として、長文が書けない人は、長文が読めない(理解する能力がない)人だとみなされます。
さらに、会話しかできない人はカラッポの人だとみなされます。
会話しかやっていなくて、「おはよう」とか、「駅はどこですか?」などという文しか書けない人は、あなたもわかるように、日本語の世界でも、英語の世界でも中身のある人とはみなされません。
日本語も英語も、文が書ける人は、10代から大量の文を読んできたという事実があります。
実は私の大村高校時代の同期で、高校時代は優秀だった人なのに、残念ながら、短文で、接続詞のない、奇妙な文章しか書けない人になってしまったように見える人たちがいます(複数)。
推測ですが、おそらく、彼らは、テストに必要な本以外は、本当は読んでいない人生を送ってきた人たちだと思われます。テストが終われば本を読まない、というスタンスの人たちだったのかもしれません。
最後に、まとめると、
1.いま必要ではない(あとでやればいいや)と思っても、あとでは、間に合わないことがあること。
2.今は、そのことに気がつけないし、知らせてくれる人がいないこと。
3.知らせても、あなたにはわかる能力が備(そな)わっていないこと。
だから、いま必要ではなくてもいいから、毎日、一定量(最低10分×2セット等)の読書の時間を取ったほうが良いということ。ツケがたまると、あなたの知らない間に、あとでしっかりと、まわってくるということ。
もう、やるべきことは、わかるはずですよね。ここまで知らせても、わかる能力がないのなら、それは、好きにするといいでしょう。どうなろうと、あなた自身の責任なのですから。知ったことではないんです。
とりあえず、知らせました。意味がわかった方は、読書にチャレンジしてみてください。少しずつでも。