チャンスをつかんだ大村
人生には転機があります。進学、就職、そして結婚など。町にも転機があります。大村は4回の転機に、すべてチャンスをつかみました。
だから、諫早市のような暗く(平成の町村合併前、諫早市自身が、諫早人気質というものを「性格が暗い諫早人」と発表していました)、そしてみじめな歴史にならず、長崎市のように卑屈な歴史をウソで隠す必要がなく、長崎や諫早とはまったく違い、大村は正々堂々と胸を張れます。
大村がつかんだ4つのチャンスとは?
大村の4つのチャンスとは、豊臣秀吉の九州下向で秀吉に恭順(きょうじゅん)を示したこと、関ヶ原の決戦時に徳川家康についたこと、「郡崩(こおりくず)れ」という事件ですべてを事実のまま徳川に報告したこと、そして幕末に長州藩と同盟し新政府側になったことです。
チャンスをつかめなかった長崎と諫早
諫早は、豊臣秀吉の九州下向時に、秀吉に逆(さか)らいました。その怒りを買い、秀吉の代理人である佐賀に滅ぼされ、その後、約300年間、佐賀の植民地にされ、諫早はみじめな歴史を背負うことになりました。
長崎は、大村純忠公が、家来の長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)の領地をすべて没収します。長崎甚左衛門(ながさきじんざえもん)は領地をすべて失い、みじめな人生となり生涯を終えます。長崎市の黒歴史です。
この事実は、長崎の歴史家、長崎県、長崎市は隠しています。「大村の下(家来)だった長崎」という事実は知られたくないそうです。だから、長崎市の歴史家たちは、ウソの歴史を広めています。しかし、事実は知るべきですし、広めてゆくべきだと思います。なぜなら、それは事実ですから。
*司馬遼太郎「街道を行く」より
*公費で流布されているウソの歴史(だまされないように)
大村の家来にすぎなかった長崎甚左衛門は大きな貢献はしていません。大村とは対等ではないのに、「妻の父であった大村純忠と計り」とあたかも対等であるように書いており、また領地がゼロになった事実を書かず「事あって長崎の地を去り」とごまかしていて、みじめな長崎氏と本当の長崎発祥の歴史は伝えない方針のようです。
戦国時代の西九州(長崎領などありません)
長崎氏は、大村の家来なのですから、対等ではなく、大村氏の命令に従い、大村の言われた通りにやっただけの人が長崎氏なのです。戦国時代ですから、イヤなら戦い、滅ぼせば良いだけ。戦う気概(きがい)もなく、ただ言われたとおりにやっただけの長崎氏なのに、大げさにたたえる長崎市や長崎県庁、およびその周辺の自治体が出す歴史にはウソがあるように思います。
こんな感じで、長崎市、長崎県庁、およびその息がかかっている自治体が出す歴史はごまかしが多いのです。だまされないようにしましょう。
事実は、長崎開港の祖は大村純忠です。
関ヶ原(せきがはら)とは?
ここで、関ヶ原の決戦というものを書いておきます。
1600年10月21日に美濃(みの)、現在の岐阜県関ヶ原町で実施された決戦です。岐阜県や美濃を知らなくても、関ヶ原(せきがはら)という言葉は知っている人は多いと思います。
西軍トップが石田三成(いしだみつなり)、東軍トップが徳川家康です。
関ヶ原に行ってみました
直接、関ヶ原を歩いてみました。
一人ですべて調べて歩くのは時間がなく大変だなと思っていたところ、東海道新幹線で「JR東海さわやかウォーキング」の広告が新幹線内表示板に出ました。10月15日・関ヶ原まつり+さわやかウォーキングで、武将の陣地巡りがあり、参加費無料と書いてありましたので、さっそく関ヶ原に出かけてみました。
名古屋駅まで新幹線で行き、名古屋駅からJRの東海道線特別快速で関ヶ原駅下車。名古屋駅から970円でした。ウォーキングの受付が9時から11時まで。先着4500名までプレゼントありというものでした。
9時半すぎに到着したのですが、なんとか先着4000名までにすべりこみ、二つの景品をいただき、ウォーキングに。距離は約9キロ。ただ、ウォーキングというより、普通に登山でした。
*JR九州もウォーキングをやっています。
11月3日はJR九州・大村ウォーキングが実施されます
なぜ優勢な西軍が負けたのか?
さまざまな説があると思いますが、実際関ヶ原を歩いてみてわかったのは、西軍のほうが良い場所を確保していたこと。
*旗の紋章から見て、右が西軍、左が東軍
豊臣軍=西軍、徳川軍=東軍
そのままなら、西軍が勝っていて東軍の徳川は負けたと思います。しかし、当時、福岡の大名だった西軍の小早川(こばやかわ)が裏切り、東軍に寝返った結果、動揺した西軍は負け、東軍が勝ち、徳川幕府が生まれ、その後江戸時代になります。
裏切った小早川はその後、みじめな人生となります。裏切り者は主流にはなれません。そして福岡の大名は、小早川から黒田になり、江戸時代から明治を迎えます。
関ヶ原の東西決戦の時、大村はどうしていたのか?
さて、関ヶ原の東西決戦時、大村はどうしていたのでしょうか?

熊本・宇土城主 小西行長(こにしゆきなが)公 大阪・堺の商人出身
大村は、豊臣秀吉の時代は、熊本の宇土城の城主・小西行長(大阪出身)の部隊に入り、朝鮮出兵に参加。熊本の加藤清正公に城の石垣のアドバイスを受け、大村の玖島城は加藤清正風の石垣になりました。
*宇土(熊本県宇土市)の位置
この状況だと、大村は西軍のメンバーになってもよさそうですが、実は大村は東軍のメンバーになりました。
関ヶ原の合戦前に、大村には情報が入りました。定かではありませんが、外国人キリスト教宣教師によって情報がもたらされたと言われています。推測すると、小早川の裏切りは、徳川の指示で最初から決まっていたのかもしれません。
当初は東西決戦で、大村は中立の予定でしたが、もたらされた情報により、東軍に入りました。ただ、関ヶ原には参加していません。大村は多数の家来を引き連れ、西軍の主力だった小西行長の熊本・宇土城を攻め、戦い、徳川に協力したことを示しました。
*大村は戦い、勝ち取りました。長崎と諫早は、戦いに参加する資格がなく、参加すらできませんでした。戦国時代から、この平成にまで続いている長崎と諫早のコンプレックス(長崎県庁、長崎市、諫早市が公費でウソの歴史を流布し続けている)の原点は、関ヶ原から始まっているのではないでしょうか?
*漢字の読み方:約定(やくじょう)
この時期、すでに諫早・西郷氏は佐賀に滅ぼされて、佐賀による植民地化がはじまっていました。佐賀にとって不利益な文書はすべて焼かれています。諫早のほんとうの歴史は、諫早には残っていなくて、大村に保存されている理由は、佐賀から焼かれてしまったからです。
長崎は、すでに大村氏によって、大村の家来だった長崎氏の所領はすべて没収され、長崎氏はみじめな人生をおくり、滅びました。
そして、長崎は大村領から秀吉の直轄領となりました。秀吉が亡くなり、徳川の時代には、徳川領になりましたが、長崎奉行は徳川ではなく、徳川から任命された代理人によって統治されました。大村も長崎奉行になって、長崎を統治しています。
*宇土城
出典:日本全国城めぐり様より
*現在の宇土城の写真はこちら:お城巡り様
大村のいとこだった島原の有馬氏は、中立ではなく西軍でした。しかし、西軍敗北の知らせが届くと、大村の宇土城攻略に合流し、東軍に寝返りました。そのため、有馬も、徳川から本領安堵(ほんりょうあんど)とされました。
関ヶ原決戦のあと、大村はどうなったか?
この結果、国替えにも取りつぶしにもあわず、本領安堵(ほんりょうあんど=大村の領土はそのまま変えない)と徳川から書状が届き、大村は江戸時代を経て、明治を迎えました。
*出典:大村市立史料館
右上が徳川から届いた本領安堵の書状
そのおかげで、江戸時代・1670年に九州で初めて開校した学校である集義館(しゅうぎかん)から、五教館(ごこうかん)、明治となり私立大村中学(旧制大村中学)、そして今の大村高校があります。
結論
もし態度をはっきりしないで中立のままだったり西軍だったら、東軍の徳川から滅ぼされていて、大村は、諫早市や長崎市のようなみじめなものをひきずって、ほんとうの歴史を隠してウソの歴史しか発表できない卑屈な精神になっていたと思います。
中立か西軍だった場合には大村は滅ぼされていたと思われるので、江戸時代・1670年に九州で初めて開校した学校である大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)は生まれていませんでした。
幕末、なぜ大村は長州藩と盟約をかわし、新政府側になったかは、また書きます。
関ヶ原と同じで、きわどくギリギリの選択で、大村は幕末から明治維新、情報により時代を乗り切っています。なお、大村から明治維新に参加したメンバーは全員、大村高校の前身・五教館の出身です。