大村高校の校歌を読み解く 3

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先覚(せんかく)の道

【先覚】広辞苑より

1.世人(よのひと)より先に道理を覚(さと)り、世を導くこと。また、その人。
2.学問上の先輩、先学(せんがく)。
*【先覚者】他に先んじて、ことの道理や重要性を知り、事(こと)を起こした人。くさわけ。

先覚者として 大村家

1.大村純忠(おおむら すみただ) 公
日本で初めてキリスト教の大名になった大村純忠公は、ジャングルで人が住めなかった長崎村を開港し、町作りをし、人が住める町にしました。そして、日本で初めて、欧州の土を踏んだ天正の少年使節団を企画し、実行しました。

織田信長から豊臣秀吉の時代になり、豊臣秀吉が九州に下向した時には、大村は、すぐに豊臣秀吉に出向きました。

諫早は豊臣秀吉に逆らったため滅ぼされました。以後、諫早は、明治時代になるまで約300年間、佐賀の植民地にされ歴史から名前が消えました。

*江戸時代の肥前(ひぜん=現在の長崎県、佐賀県)国。諫早(いさはや)は、佐賀の一部なので、名前がありません。佐世保はジャングルで平戸藩の一部、長崎は天領で幕府領です。
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朝鮮出兵の時は、大村は小西行長の1番隊として戦い、豊臣が没落し、次は徳川の時代になると確信した大村は、関ヶ原では最初から徳川の東軍に参加。大村は江戸時代以降、現在まで続いています。大村市が安定しているのは、そのためです。

2.大村純長(おおむら すみなが)
九州で初めて、日本で二番目となる学校、集義館(しゅうぎかん)を開校しました。この学校が発展し、五教館(ごこうかん)となり、明治になり私立大村中学から現在の大村高校につながります。

大村純長公の時代、キリスト教が禁止されていたのに、大村の萱瀬(かやぜ)付近で、キリスト教の信仰を続けているものたちがみつかり、幕府から報告をもとめられました。大村純長公は正直な性格だったため、すべてを包み隠さず正直に幕府に話しました。そのためか、幕府から、何のお咎(とが)めありませんでした。

大村純長 公のお墓
大村高校の前身・集義館を創設した藩主・大村純長公のお墓 ;大村市古町・本経寺

3.深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)
大村純長公と同時代の人物。漁業ビジネスで成功し、大富豪となりました。ただの富豪ではなく、もうけたお金を、大村の領民のために使ったので、名前が現在も残っていますし、子孫の方々も生き残っています。野岳湖は、深沢義太夫により企画され建設された湖。現在も食料安定供給のための灌漑用水として利用中。

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4.大村純雄(おおむら すみお)伯爵
明治となり、全国で藩校が廃止となり、大村の五教館(ごこうかん)も同様となりました。開校時、長崎市や長崎県から開校妨害を含め、いやがらせされたため、私立として学校を再開し、私立大村中学が、その後、大村高校となりました。

ハーバード大学出身 大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

ハーバード大学出身
大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

この時、長崎県のいやがらせを排除し、、長崎県の言うことを聞かなかったから、良かったのです。大村純雄(おおむら すみお)伯爵と大村の方々が、もしいやがらせを続ける長崎県に負け、長崎県のいいなりになっていたら、日本の社会に貢献した多数の大村の先輩方が、世の中に出ていませんでした。

先覚者としての卒業生

世の中がどうなるかわからない時代から、大村の先輩は、さまざまな方法で、先覚者として時代を切り開いています。
大村の五教館出身者は、

医学の長与専齊(ながよ せんさい:東大医学部設立に貢献、息子の長与又郎は東大総長)

物理学の長岡半太郎(ながおか はんたろう:東北大工学部設立、大阪大学初代総長)

法学の一瀬勇三郎(いちのせ ゆうざぶろう:裁判官、明治大学教授、関西大学三代学長)

農学の南鷹次郎(みなみ たかじろう:北海道大学初代農学部長、北海道大学二代総長)

キリスト教伝道者の熊野雄七(くまの ゆうしち:明治学院大学創設メンバー)

西郷南洲と勝海舟の会見で、西郷に指名されて同席し、会見の模様を世に伝えたのが、大村藩の渡辺清左衛門(後に改名して渡辺清=わたなべきよし)です。

長崎県は、長崎県の成立以前(明治16年/1883年)のことは認めない主義なので、長崎県の歴史では大村のことは無視され続けています。長崎歴史文化博物館ではウソの歴史になっている部分があるので信用しないほうが良いでしょう。大村が長崎奉行になったことは、長崎市民はどうしても認めたくないのだそうです。しかしながら事実です。

*講談社刊 華族総覧より引用

*講談社刊 華族総覧より引用

まとめ

先覚の道 我等(われら)うけつぎ・・・先覚者が出ない環境の長崎市、佐世保市、諫早市と、大村市は大きく違います。

大村からは多数の先覚者が出ています。それは、大村が江戸時代に参勤交代で江戸とつながっていたこと、オランダ貿易港長崎の刺激があったこと、大村家が長崎市がジャングルだったころから大村の地で続いていること、大村の地は弥生時代から続いていることから、精神的な安定感、食糧難にならない落ち着いた場所、水害や大災害がおきていないことなどの条件が、ことごとくそろっているからだと思われます。

現在も、大村は空港で、東京・大阪とつながり、さらに高速道路、まもなく新幹線開業で、交通の要衝として、今後の発展が見込まれます。

卒業生は、歌詞に負けないように、大村の方々の精神と実績を受け継ぎ、我ら(卒業生も在校生も)は、今後もさらに、新しい道を切り開いていきましょう。

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続く

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