↑トム・クルーズによる渋谷区のふるさと納税キャンペーンポスター(都内、地下鉄で撮影)
指標を見て、大村市の財政健全性があきらかになっています。
人口が増加している都市は、長崎県で大村市だけです。
ソース:全国の人口増減
九州内で人口が増加しているのは、福岡市周辺と大村市だけです。
富裕度も県内一位です。ソースはこちら。
これまでの長崎県の学校で教えこまれる価値観だと、ただ「人口が多いところがすばらしいのだ」、だから、「長崎市は人口が県内で一番なので、長崎市を無条件に尊敬しろ」、みたいなものでした。今後は、さまざまな情報と指標をみて、長崎県にだまされないように、事実を知り、各自判断されたほうがいいのではないかと思います。
大村市が安定している理由は、歴史的なものです。
長崎県庁と長崎県教育委員会は、わざとか、あえてか、この事実を教えないのですが、知っておいたほうがよいです。
知っておくべき事実とは、大村は994年から1000年以上も領主が変わらないで、現在も続いていることです。鹿児島(薩摩)の始まりが1185年からですから、薩摩の島津家より、肥前の大村家のほうが191年(約200年)ほど古いです。
九州で最も古くから続く土地柄であることを、長崎県教育委員会も長崎県庁も、知ってか知らずか、決して教えないので、県庁職員や県教育委員会より詳しくなっておきましょう。
日本百科全書より引用
A.D.(西暦)994年(正暦5)藤原直澄(なおずみ)(大村直澄)が久原城に入部して以来、約1000年の歴史を有する大村藩2万8000石の城下町で、その間居城は久原城から1564年(永禄7)三城へ、さらに1598年(慶長3)玖島城(くしまじょう)に移ったものの1000年近くも領主の変わらない城下町はきわめてまれな存在であろう。
比べておきます:
諫早(西郷氏)は、戦国時代に、豊臣秀吉に逆らったために、豊臣の代理人である佐賀に滅ぼされました。江戸時代は佐賀の植民地でした。
長崎氏は、大村の家来で、大村純忠の娘と政略結婚させられましたが、長崎甚左衛門(じんざえもん)の領地は、大村に没収され、領地がゼロになり、長崎氏は滅びます。
甚左衛門の弟は、大村純前(すみあき)公の家来として、豊臣秀吉が命令した朝鮮出兵に出陣します。帰国後は、大村藩の土木担当として働きました。兄の長崎甚左衛門は滅びましたが、甚左衛門の弟の長崎家は、大村で現在も続いています。
なお、大村の先輩は昔から、長崎市を、ただの「県都」、とだけ表現しています。
歴史を知っている人なら、長崎市はたいした歴史がない町、そして、大村純忠公がいなければ、長崎に町はできておらず、海辺の、ただのジャングルに過ぎなかったことを、先輩方はご存じだったのでしょう。
歴史的事実を隠すため、長崎歴史文化博物館は、ごまかした記述をしていますので、長崎市の歴史家たちが、大きな声で主張するウソの歴史にだまされないようにしましょう。
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