東海道が街道として整備が始まったのが関ヶ原の戦い(1600年)以降、徳川家康が勝利した直後からです。それまで、大村藩では、江戸(現在の東京)に出た人は一人もいませんでした。
大村藩は、関ヶ原の合戦時、東軍の徳川方につきました。徳川方だったので、大村藩は江戸時代も存続し、大村は明治、大正、昭和、平成の現在まで続いています。
徳川幕府の参勤交代(さんきんこうたい)政策により、大村藩は大村・玖島城から江戸・日本橋(現在も残っている東京都中央区日本橋)まで、45日かけて上京しました。帰りも45日です。参勤交代は1年ごとでした。
しかし、大村は江戸まで45日、往復で90日かかるので、参勤交代で江戸に滞在するのは1年ではなく9ヶ月になっていました。
大村藩の先輩(大村高校の前身である五教館の先輩)の皆様が滞在していた場所は、現在の国会議事堂の隣にある国会図書館の場所でした。
大村から小倉までは徒歩。小倉から大阪まで瀬戸内海は船。大阪から京都は川をのぼり、舟で。京都の三条大橋から江戸・日本橋まで、東海道を徒歩でした。
幕末は、大村は長崎奉行になり、長崎を統治し防衛しました。
さて、参勤交代で1年ごとに上京した大村藩でしたが、当時の東海道は現在も残っています。大村の歴史研究家の方の論文や資料を調べてみましたが、実際に歩いてみたひとはいないようです。
そこで、昨年に続き、本年もまた、実際に大村藩の先輩の方々(五教館の先輩の皆様)のルートを歩いてみましたので、昨年に続き書かせていただきます。いくつか疑問があったのですが、実際に現地を歩いてみたことでわかったこともあります。
ここ数年、仕事で関西・中部地方に出張するのですが、仕事のあと時間が許す限り、現地へ行ってみました。
なお、東海道を実際に歩くのは、特別なものではなく、社会的に普通のウォーキングのようになってきています。
その7へつづく
【在校生向け】大村高校と関ヶ原(せきがはら)2:関ヶ原で石田三成(いしだみつなり)の西軍だったら、大村市も大村高校もなかった