画像:国立公文書館
昭和5年(1930年)、山本五十六(やまもといそろく)海軍大将と共にロンドン軍縮会議に副官として出席したのが、大村の橋口義男(はしぐちよしお)先輩でした。
*ロンドン軍縮会議の前に開かれたワシントン会議:若槻(わかつき)首相
山本五十六 帝国海軍大将は後半4分49秒。最初に自動車から出てくる人物がハーバード大学に留学経験がある山本五十六氏
当時の米国は共和党のフーバー大統領です。
*上記動画、53秒から1分07秒に注目:白い帽子を被り、杖を手にした人物、容姿と動作から、フーバー大統領の次のフランクリ・ルーズベルト(民主党)では?(銀ブチのメガネをかけていて、足が悪く、ステッキを常用していた)。日本を三か月で滅ぼし、日本人を「虐殺」すると外交文書を残した大統領が、フランクリン・ルーズベルト大統領です。フランクリン・ルーズベルト(民主党)の前のフーバー大統領(共和党)が書き残した本に書かれています。
フーバー大統領が残した本及び詳細は、以下のエントリー後半部分に書いてあります。
さて、ロンドン軍縮会議に副官として出席した橋口義男(はしぐちよしお)先輩(軍縮会議当時、副官)の経歴:
竹松小学校→
旧制県立大村中学校(5年制、現・大村高校)→
旧制国立第五高等学校(3年制、現・熊本大学教養部)→
東京大学工学部船舶工学科→
技術者として帝国海軍(水陸両用の二式大艇[にしきたいてい]、最後の戦闘機・紫電改[しでんかい]の開発責任者)に入り、帝国海軍で技術者のNo.2である技術少将として終戦。
繰り返しになりますが、何度でも。勉強するとき、英語、歴史、古文、化学の元素記号、生物は何度でも繰り返す必要がありますから。
大村高校マラソン大会第一回~第三回まで優勝し、北九州マラソン大会でも優勝した橋口先輩のことを少し詳しく書きます。
大村高校マラソン大会がどういう経緯ではじまったのか?こちらに書きました。
旧制中学は5年生でした。橋口先輩は、5年間無遅刻無欠席。しかも、自宅があった竹松から、駆け足で通学。放課後は靴を脱ぎ、ハダシで走って帰宅していたエピソードがあります。
*当時、靴が高価で、靴が早く消耗しないようにとの意味で、靴は大切に扱われました。また、当時は運動靴、スニーカーというものがこの世になく、走る場合は運動用の足袋[たび]を用いた時代でした。
決して裕福な家庭ではなく、母子家庭でした。十二才の時に、父親を失い、当時32才の母親から家庭できびしい教育を受けました。当時は母子家庭に対する手当など何もない時代です。学費も無料ではなかった時代です。
*日本人の平均寿命は、明治・大正時代は40才代。50才を超えたのは昭和22(1947)年です。したがって、当時、女性は18才くらいで結婚していました。二十歳までに二人ぐらいの子供がありました。わたくしの両方[父方、母方]の祖母も17で結婚して20歳までに2~3人の子供をもうけました。100年前で、医療技術が発達しておらず、人生が短かったし、たくさん子供を産まないと、何人が育つかわからないような状況でした。
第二次大戦前の平均寿命(明治生命)
そのお母様から「これからは英語ができないとダメだ」と言われ(100年前の大正時代です)、旧制大村中学入学後は、英語は、卒業まで満点を取り続けました。
大村の旧制中学時代に英語を猛烈に勉強したことは、のちに橋口先輩が、世界史・日本史の教科書に登場する1930年代のロンドン軍縮会議に出席した時に役立ちます。
大村で生まれ育ったマラソン好きの少年が、後に、世界の檜舞台(ひのきぶたい)に出席することなど、在校時は、まったく予想もつかないことでした。在校生は、今勉強していることは、今は役立たないかもしれないが、あとで、予想もつかないことに役立つことがあることを知っておきましょう。
旧制大村中学で、当時の英語は、錦戸(にしきど)先生。錦戸先生は、米国大統領セオドア・ルーズベルトの娘アリス・ルーズベルトが大村訪問時、会話した英語の先生でした。
錦戸先生とアリス・ルーズベルト
無遅刻無欠席、しかも竹松から毎日往復12キロを走り、英語が満点だった橋口先輩は、旧制第五高校・理科系に合格。当時、九州に高等学校は4校しかありませんでした。それから、東京大学工学部に進学。
大学卒業時、技術者として海軍を受験。そのときの試験官が、後(のち)に海軍大将にとなる山本五十六氏でした。