登場が早ければ歴史が変わっていたかもしれない兵器10
アメリカ人が考察した「登場が早ければ歴史が変わっていたかもしれない兵器10」の中に、紫電改(しでんかい)という戦闘機が登場しています。
アメリカ人が考察した、登場が早ければ歴史が変わっていたかもしれない日本の10の兵器
8. 紫電改
帝国海軍最高の戦闘機、紫電改には少々変わった開発経緯がある。もともとは川西航空機が水上機として考案していた機体を、水上機の需要(じゅよう)低下を見越(みこ)して陸上戦闘機化する提案をしたことから開発が始まっている。急遽(きゅうきょ)開発され、1944年に配備された紫電は、鈍重(どんじゅう)で米軍の最新兵器にまるで歯が立たず、F4Fワイルドキャットに酷似(こくじ)していたため誤射(ごしゃ)の危険もあるなど、様々(さまざま)な問題に見舞われた。またブレーキの効きが左右で異なり、着陸が容易ではないという欠陥もあった。
しかし、着陸装置を短くし、エンジンも強化された紫電改は非常に優れた機体に生まれ変わった。
12機のヘルキャットとのドッグファイトで(紫電改)1機で4機のヘルキャットを撃墜するなど、その優れた性能が証明されたが、戦争の勝敗に影響するほど生産されることはなかった。
大村の先輩が開発責任者だった紫電改(しでんかい)
紫電改は、大村の橋口先輩が責任者として開発された戦闘機です。橋口先輩の経歴は、竹松小学校(当時の義務教育は小学校だけ)、大村高校の前身・旧制大村中学校より旧制第五高等学校(現、熊本大学教養部)、そして東京大学工学部に進学されました。
橋口先輩は、小学校時代にお父様が亡くなり、母子家庭でお母様が働きながら、家計を支えました。
橋口先輩のエピソード1
お母様から「これからは英語ができないとダメだ」と言われ(100年前の大正時代です)、旧制大村中学入学後は、英語は、卒業まで満点を取り続けました(大村高校百年史・同期の方々の証言より)。
大村の旧制中学時代に英語を猛烈に勉強したことは、のちに橋口先輩が、世界史・日本史の教科書に登場する1930年代のロンドン軍縮会議に出席した時に役立ちます。
大村で生まれ育ったマラソン好きの少年が、後に、世界の檜舞台(ひのきぶたい)に出席することなど、在校時は、まったく予想もつかないことでした。在校生は、今勉強していることは、今は役立たないかもしれないが、あとで、予想もつかないことに役立つことがあることを知っておきましょう。
旧制大村中学で、当時の英語は、錦戸(にしきど)先生。錦戸先生は、米国大統領セオドア・ルーズベルトの娘アリス・ルーズベルトが大村訪問時、会話した英語の先生でした。
*錦戸先生のお孫さんは、現在、東京大村会の会長です。
錦戸先生とアリス・ルーズベルト
https://omura-highschool.net/2015/01/24/135/
橋口先輩のエピソード2
また、旧制大村中学在学中は竹松から、久原の旧制大村中学まで、毎日マラソンしながら登下校されました(往復14㎞)。そして、100年前、初めて開催された、大村高校の前身・旧制大村中学マラソン大会の第一回優勝者でした。
大村高校マラソン大会は、どのような経緯(いきさつ)で始まったのですか?
愛媛県にある紫電改展示館
なお、日本には紫電改は1機だけ現存しています。
近いうちに、行ってみる予定です。
大村には、戦前・戦中に、航空機の製造工場があり航空敞(こうくうしょう)と呼ばれていました。大村でも紫電改は製造されました。
大村高校と戦闘機・紫電改(しでんかい)に関して
その1
その2
その3
その他