大村の先輩の「夢の跡」を訪ねて:その1 大阪・伊東静雄(詩人)先輩の碑 

大阪には、いくつか大村の先輩方の「夢の跡」(あるいは「残り香」)がありますが、今回は。伊東静雄先輩の碑。

大阪市阿倍野区松虫というところにあります。アベノハルカスビルが見えました。

大阪出張の時に、訪ねてみました。

佐賀の植民地として約300年過ごした諫早は、貧しいエリアでした。佐賀から搾取(さくしゅ)され、一揆(いっき、反乱)がおきた土地柄です。大村とは違い、諫早は一般的に人の心がおだやかではない土地柄だったようです。

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諫早高校の前身、旧制諫早中学は、大村の全面的支援で開校したのに、諫早の方たちは隠してばかりなのが、諫早の方のコンプレックスなのだと感じます。

伊東静雄先輩は、1906年に諫早生まれ。諫早小学校から旧制大村中学に進学。旧制中学は五年制でしたが、成績優秀で、四年で卒業し、旧制佐賀高校に進学後、京都大学文学部へ。

大村では、四年で卒業できた人を四修(よんしゅう)と呼び、特選校交として名前が残っています。四修(よんしゅう)の先輩で有名なのは、ルワンダ国でルワンダ銀行総裁から世界銀行副総裁となった服部正也先輩、田崎真珠の創業者・田崎俊作先輩の方々が名前を残しています。

伊東静雄先輩もその四修でした。

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ただ、一般的な諫早人らしく、大村を嫌い、大村湾を嫌う文章を残されています。大村を嫌いな佐賀の殿様(鍋島)も、大村を嫌い、大村湾を嫌う文章を残されていますから、佐賀から300年も搾取され、その間に、諫早は佐賀弁になり、思考も佐賀と同じになったのでしょう。諫早の悲劇は、諫早の殿様(西郷氏)が豊臣秀吉に逆らったことで、佐賀に滅ぼされたことがすべての始まりなのですが、そのことは教えられていないようです。

伊東静雄先輩は、大村卒業生なのに、まったく大村の人とは交流しませんでした。京大に入学した当時は、京大文学部の教授に、大村の卒業生である朝永三十郎(ノーベル物理学賞・朝永振一郎の父)先輩がいらっしゃったり、文芸では、東京で、伊東静雄先輩の一つ上の福田清人(ふくだきよと)先輩がいたのですが、まったく交流されませんでした。

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諫早出身で、大村で伊東静雄と同期だった國學院大学文学部教授となった蒲池勘一(かまちかんいち)先輩、早稲田大学文学部教授となった川副国基(かわぞえくにもと)先輩は、大村の人と交流がありました。伊東先輩は、まったく交流しない不思議な人物だったようです。

京大を卒業後、大阪府立住吉高校で国語(古文)の教師となりましたが、親が事業し失敗され、親の借金がふりかかり、才能があったものの貧乏(びんぼう)なまま人生を終えられました。

学校では古事記を教えていましたが、貧乏だったため、身なりと身だしなみが悪かったため、生徒からは「乞食」(こじき)と呼ばれていたと記録が残っています。生徒は、伊東先輩の文学的才能が理解できなかったのでしょうか。

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