長崎県の学校では教えられない「長崎事件」について知っておきましょう。なぜなら、それは歴史的な事実(史実)だからです。
日清戦争の開戦は、清国が長崎事件をおこしたことで、日本は覚悟が決まった部分があると伝えられています。話し合いではっきりとした決着がつかなくて、清国が問題をおこしたのに責任をとらず(現在の中華人民共和国と同じメンタル)、条約が日本に屈辱的な内容だったからです。
*長崎県教育委員会と長崎県の教員たちが教えない長崎事件を知ろう!
長崎事件
長崎事件を教えない長崎県教育委員会と長崎県の教員たち
重大な事件なのに、修学旅行を中国にする長崎県の教員らが、長崎県では触れたがらないと考えられる「長崎事件」。
*長年、修学旅行を中国にしてきた学校(長崎県内):
長崎東高、長崎西高、長崎北高、
佐世保北高、佐世保南高、
五島高校、島原高校、猶興館(ゆうこうかん・平戸)高校
など。長崎県庁、長崎県教育委員会、そして教員らは、生徒をシナ(現在は中華人民共和国)に跪(ひざまずか)せ、反日思想で洗脳するために、わざわざシナ(現在は中華人民共和国)に旅行させているのでしょうか?
まず、長崎事件を知り、話題に出してゆく必要があります。
無許可で上陸した支那(シナ:当時、清国。現在、中華人民共和国)人たちにより長崎市の治安を乱されたので、治安を維持するために戦った日本人警察官が、無許可で上陸したシナ人たちに長崎市内で殺害された事件です。
問題をおこしたのは中国なのに、他人のせいにして、中国は善人としてふるまう、というのが中国人の(小中国といわれる朝鮮人も同じ)パターンです。相手を混乱させる手として、中国人がしばしば使うでっち上げと嘘による心理戦術です。
日本人なのに、シナにばかり配慮し、修学旅行させる長崎東高、長崎西高などでは触れないのかもしれませんが、歴史的事実ですから、話題に出してゆくべきでしょう。
長崎事件を知ろう
この事件を契機にして、日本は清国との開戦を決意しました。
長崎事件の概要:
1886年(明治19年)8月。大村高校の前身、旧制大村中学が開校して2年目のできごとです。
清国は、当時、世界最大級であった戦艦・定遠(ていえん)、鎮遠(ちんえん、定遠と同型)、済遠(さいえん)、威遠(いえん、練習砲艦)の4隻の軍艦を、修復理由に長崎に入港させました。しかし、ほんとうは大きな軍艦を見せて日本国民を威圧する目的があったと言われています。
その軍艦の、定遠・鎮遠はドイツ製、当時世界最大級を誇る巨大戦艦でした。
*清国軍艦の日清戦争での、その後
長崎港に寄航したその夜8時半頃、「数名の清国水兵が、丸山遊郭の寄合(よりあい)町の貸座敷で家財を毀棄(きき=こわして捨てる)するなどの乱暴を働いた」との通報があり、丸山町巡査派出所にあり、巡査(じゅんさ、警察官のこと)2名が現場にむかいました。
現場では、清国の水兵らは、日本の巡査に暴行を加えたので、日本の巡査は清国人2名を逮捕しましたが、他の清国水兵は逃げました。
しばらくして、10名~15名ぐらいの清国水兵が派出所前に来て、中の一人の水兵が巡査を指差して何事か悪口のようなことを言っているのを見たところ、さっき巡査に暴行して逃亡した者の1人でした。
清国水兵を取り押さえようと日本の巡査が清国人に迫ると、その暴行した清国水兵は、日本刀を抜いて日本の巡査の頭上を切りつけました。
巡査はその刀を奪い取ろうとして、手と頭を負傷。応援の巡査と共に力を尽くして刀を取り上げ、押し倒してようやく取り押さえました。
その際、清国水兵も頭部を負傷しました。それより清国水兵を濱町(浜の町)警察署に送り、後に清国領事館に引き渡しました。
これが後の大騒乱の発端になりました。
問題をおこしたのは清国です。
これだけでは終わっていません。支那人のことですから、何かあとで必ずやらかします。今の中国人と同じです。
2日後の午後5時頃、おおよそ300名もの清国水兵が無許可で長崎に上陸しました。
不穏(ふおん)な挙動(きょどう)があるとのことで、巡査1名のほか、梅香崎警察署から2名の巡査が現場へ向かいました。
清国水兵らは酒店などの店に入り、夜になっても船に帰りませんでした。後で判明したことは、清国水兵は、あらかじめ刀を持ち、棍棒を持つなど武器を日本に持ち込んでいました。
その2名の日本の巡査と清国水兵は揉(も)み合いとなり、他の巡査2名が駆けつけると、清国水兵20数名が現れて乱闘となり、清国水兵は百人以上となって、日本の巡査1名は清国水兵により殺害され、1名は重症を負って倒れました。
長崎警察署から、応援に8、9名の警棒巡査が到着しましたが、現場では、300名程に膨れ上がった清国水兵が、思切橋から廣馬場街、舟大工町の周辺で暴行の真っ最中でした。
*台湾 中央研究院近代歴史研究所より
支那人(清国)側が描いた絵なので、事実は支那人300人程度、日本人10名程度の戦いであったのに、支那人が少なめに書かれ、支那人が被害者であることを強調したウソの絵になっています。
また、わざと清国水兵が近代的な軍服で、日本が文明開化前の姿で書かれています。本当は、清国水兵が文明開化していない海賊の服で、日本の巡査が近代的な服でした。シナ人(現在の中華人民共和国)がしばしば使うウソの手口です。
写真で事実を確認:↑上記のシナ人が描いた絵画はウソで、本当は海賊服だった清国水兵↓
シナ人のウソ情報の出し方:投射(とうしゃ)という技法。相手にすべてをなすりつけ、本人は善人としてふるまう。事実は清国人が300人以上、日本はたった10人程度なのに、事実を反転させ、日本が大勢、清国人が少数として描く。このやり方で、長崎県の教育者(教員、長崎県教育委員会)たちはだまされて、ウソを児童・生徒に強要しているのです(100人斬り事件と長崎県教育委員会の甘い対応が実例)。
長年の事実でわかるように、長崎県の教員や長崎県教育委員会の方々は、おそらくほぼ全員が調べる能力がない無能な方々ばかりなのですから、長崎県の教育者を信用しないこと。それから優秀な人は、決して教員を目指してはいけないと思います。
地図:清国人が無許可上陸し、暴行など破壊活動をはじめた思切橋
駆けつけた日本の巡査に対し、清国水兵は刀と棒で襲撃。日本の巡査も剣を抜いて防戦しましたが、多勢(300人の支那人)に無勢(8名の日本人)で遂に重傷を受け、翌日に入院先で殉職(死亡)されました。
やがて追加の巡査が駆けつけて日本勢は30名程となりましたが、それでも人数として不利で、ほぼ全員が負傷しながらも清国水兵をつかまえ、逃げ惑う日本国民である長崎市民を助け、また清国商人を救護し、鎮圧に努めました。
今の長崎市民と違い、昔の長崎市民は勇敢でした。
この騒動を知った長崎の付近住民が、手に手に武器を持って多数で駆けつけ、投石。
そのうち、清国士官も1人が即死し、負傷の支那水兵は15、6名に及びました。そして、清国水兵たちは清国領事館内に逃げ込みました。
昔も現在も、中国領事館は、日本に対する破壊活動の拠点になりそうですよね。長くなるので長崎事件のことを知りたい場合にはこちらへ:長崎事件。
NHKはドラマ「坂の上の雲」で長崎事件は、中国は悪くないという印象操作の放送をしたので、NHKにはだまされないようにしましょう。どう考えても、無許可上陸して、暴行や破壊活動をした支那人(現在の中国人、当時の清国人)のほうが悪いのです。