フロイスの見た戦国日本、時代背景
長崎市の領域がジャングルで人が住んでいなかった戦国時代。
有馬(島原)、佐賀の龍造寺によって滅ぼされた諫早、そして龍造寺の強大な勢力に対抗する大村のことが詳しく書かれたルイス・フロイスの日本史。
*大村、有馬、大友の人間関係
この戦国時代に書かれたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの日本史は、とても長く(12巻ある)、読む時間がないという人のために。ダイジェスト版「フロイスの見た戦国日本」という本があるので紹介しておきます。
ダイジェスト版ではなく、きちんと理解したい人向け:
豊臣秀吉に滅ぼされるまでの間、諫早の殿様と、大村の殿様とのことは、ルイス・フロイス日本史9巻以降を参照してみてください。
長崎県県庁、長崎市、長崎市の歴史家たち、そして長崎県教育委員会が出す歴史にはウソがありますから、この本はおすすめです。事実を知って、長崎県庁、長崎市、長崎市の歴史家たち、そして長崎県教育委員会にだまされないようにしましょう。
長崎県庁、長崎市の歴史家たち、長崎県教育委員会の出すウソ歴史のパターンは決まっています。単なる集落にすぎなかった長崎村が中心地であったというウソ、長崎村は大村領であったことを隠し、そして大村純忠の存在を無視することが、長崎県庁、長崎市の歴史家たち、長崎県教育委員会の出すウソ歴史のパターンです。
一例:ルイスフロイス日本史より
当時の長崎村はまだ集落レベルで、弱勢の村だと書いてあります。当時は長崎県などないし、長崎地方なんて呼べるわけないですから。
当時の勢力図
*戦国時代の西九州(長崎は大村領、大村氏が長崎の町を造成、諫早の西郷氏は豊臣秀吉にさからったので滅ぼされ佐賀領。島原の有馬氏と武雄の後藤氏は大村氏と親戚)
大村純忠公のイメージ
他の大名とは違い、剣(つるぎ)を差し、鎧(よろい)を着ながら(武)、左手に書物(文)。これって、大村高校の校是である両道不岐(りょうどうふき)です。しかも、大村高校のシンボルカラー紫紺(しこん)が、純忠公の鎧(よろい)、袴(はかま)の裏地、そして剣(つるぎ)に使用されています。
大村高校の両道不岐(りょうどうふき)を知らない在校生、卒業生へ
大村高校のシンボルカラー紫紺(しこん)を知らない在校生、卒業生へ
その1
その2
その3
その4
なぜ、ポルトガルは平戸を捨てて大村を選んだのか
さて、なぜポルトガル人は、それまで入港していた平戸を捨てて。大村領に寄港するようになったのでしょうか?
長崎県で教えられてきた、長崎県の教員が教えてきたものとは違うようです。
平戸の殿様と僧侶
平戸の殿様のポルトガルに対する憎悪(ぞうお)と、平戸の仏教のお坊さんたちの反抗が原因で、キリスト教は平戸から大村に移ってきました。フロイスの見た戦国日本より
平戸は友好的ではなかった
長崎県の教員たちが教えてきたことと、ポルトガル人が実際に体験したことが違っていました。
フロイスの見た戦国日本より
大村は領内すべてがキリスト教になった
領内すべてがキリスト教になったのは、大村だけです。長崎氏の名前など、どこにもでてきません。すべては、大村の殿様であった大村純忠公の考えと行動でした。
佐賀の龍造寺との戦いに関しては大村史料館に行けばわかるので、省略します。史料館に足を運んで、史実を確かめてきて下さい。この戦いで、佐賀に負けていれば、大村は諫早のような惨(みじ)めな歴史となり、中途半端で自信のない内面をもつような地域になっていたでしょう。
諫早に関してその1
諫早に関してその2
結論:なぜ長崎県庁と長崎市の歴史家たちはウソの歴史を県内に押しつけてばかりなのですか?
自分たちが主役にならず、よその人の統治で動いてきたのが長崎市です。大村とは違います。「お前ら、自分たちで、考え行動したことがない歴史だろ」と言われるのがこわいのか、長崎市の出す歴史はウソがあり、大村が長崎を開港したことはいつも隠してあります。
なんでも長崎市が一番という考えを押しつけて、事実を消す傾向が強いのが、長崎県庁と長崎市の歴史家たちが出す歴史教育ですから、ダマされないようにしましょう。