*画像:東海道歩き旅様
江戸時代、各藩は参勤交代(さんきんこうたい)により、江戸とつながっていました。具体的には、長崎県では、大村藩、島原藩、平戸藩、対馬藩、そして五島藩です。
殿様は江戸で生まれ育っているので、各地方の方言とは違う江戸弁(今の東京弁)でした。大村の場合、家来は大村育ちですから大村弁でした。大村藩の藩邸は、現在の国会議事堂の隣にある国会図書館の場所でした。
つまり、大村の玖島城から、江戸(現在の東京)日本橋をめざして、1年ごとに、参勤交代で江戸に上(のぼ)りました。
*写真出典:日本橋夜景 daiのブログ様
当時の長崎市は幕府の植民地である天領で、徳川の代理人として交代で植民地総督(しょくみんちそうとく)として派遣された長崎奉行が治め、諫早もやはり佐賀の植民地で佐賀藩から搾取(さくしゅ)され一揆(いっき)が発生、そして佐世保はジャングルでした。
参勤交代時、大村藩は、徒歩で大村から小倉(こくら=北九州市)まで。
小倉から大阪までは船。大阪から京都は船(今の地図と江戸時代の地図は違うので注意)。
そして、豊臣秀吉が架けた京都の三条大橋から、江戸の日本橋までが徒歩でした。
京都 三条大橋
江戸時代
現在
しかし、すべてが徒歩ではありません。よく地図をご覧ください。
現在の三重県の桑名(くわな)から、名古屋の宮(現在の熱田神宮)までは「七里(しちり=約28キロ)の渡し」とよばれる船でした。
七里の渡しは天候に左右され、往来に障害が発生したこともあったようです。
桑名(くわな)と熱田(あつた)は今年(平成28年、2016年)中に行く機会があるので、そのときに、また投稿します。
さて、大村藩の藩校・五教館出身の先輩の方々が、歩いた東海道がそのまま残っている場所に行ってきましたので写真を貼っておきます。
場所は、愛知県の岡崎市。東海道の町並みが江戸時代のまま保存されている場所があります。
この場所に600年以上前から味噌を製造している会社があります。
その中には、豊臣秀吉が日吉丸(ひよしまる)と呼ばれていたワルガキだった時代に、いたずらしていた井戸がそのまま残されています。
ご存じのように、九州は、甘い麦味噌(原材料;麦)です。関東は、塩辛い米味噌(原材料;米)です。中部地方は、赤だしの豆味噌です。写真は、八丁味噌と呼ばれる赤だしの味噌工場です。
この味噌工場前にある通り(通り=Street)が、江戸時代の東海道でした。大村・五教館の先輩の方々が歩いて通った道なのです。幕末から明治にかけて活躍された渡邊昇先輩も、楠本正隆先輩も。
まるや八丁味噌