*写真:今から約100年前の、大正7年(1918)〜大正11年(1923)、旧制大村中学在学中のことを描いた、福田清人先輩の作品「秋の目玉」より
マラソン大会と秋の目玉
経歴:東彼杵(ひがしそのぎ)郡出身。旧制大村中学(5年制)を2番で卒業→旧制福岡高等学校(3年制、現・九州大学教養部)→東京大学文学部卒
当時の旧制大村中学は定員100名でしたが、期末試験の平均点が60点以下の科目が1つでもあれば落第でした。福田先輩の学年は、100名入学し、卒業できたのが66名と記録にあります。
鉄道はSL(蒸気機関車)で、長崎線(現、大村線)が開通していましたが、自動車がない時代です。通学できない生徒には寄宿舎(きしゅくしゃ)がありました。福田清人先輩は寄宿舎で5年間過ごされました。大村の分校として開校する諫早高校(旧制諫早中学)は、この時点では存在していません。
作品の中で、旧制大村中学は「九島中学」、大村神社は「九島神社」と書かれています。当時のマラソン大会は10月に開催されていました。また、当時は、マラソンの距離は「キロメートル」ではなく「マイル」で表記されていたようです。
福田清人先輩が入学する5年前に大村高校マラソン大会が始まっています。
*昭和9年(1934)のマラソン大会:鶴亀橋方面から本町を撮影してあります。成功堂(セイコー堂薬局)、魚屋さん(魚光)が写っています。
当時のマラソン大会に関しては:
大村高校マラソン大会はどのようにして始まったのか?
東大教授となった先輩を迎えて、講演会
当時から、旧制大村中学では、先輩を迎えて講演会が実施されていました。福田先輩に大きな影響を与えたのは、旧制大村中学出身の先輩で東大教授となり、それまでバラバラだった日本の歴史を体系的にまとめた黒板(くろいた)博士を迎えての講演会でした。
*作品では、「黒板博士」のことは「黒金博士」となっています。「地獄段(じごくだん)」と書かれているのは、大村神社の「いろは段」です(いまもあります)。それから、あまり知られていませんが、大村高校テニス部は、ボート部と同じく、実は100年以上の歴史があります。
昔から、大村にいやがらせばかりしてきた長崎県、県知事、そして長崎県職員が、旧制大村中学でも嫌われていたことがわかります。大村高校でも口には出せないものの、生徒の間では、長崎県、県知事、そして長崎県職員が、決して好かれていない伝統は続いていると思います。
興味がありましたら、図書館で、福田清人先輩が書いた「秋の目玉」を探して読んでみて下さい。
すぐに読みたい場合、紀伊国屋書店が電子本を出しています。ダウンロードしてすぐスマホで読めます。660円です。
電子本の場合、スマホですから、文字を拡大できるので、視力が弱った高齢の先輩でも、楽に読めますので、お試しください。
福田先輩は、大村高校校歌の作詞もされています。