大村高校マラソン大会は、今年度100周年を迎えます。そのマラソン大会第一回から第三回までの優勝者が、帝国海軍戦闘機・紫電改(しでんかい)を開発した、大村高校の前身・旧制大村中学の先輩である橋口義男(はしぐちよしお)先輩です。
紫電改に関して 8分54秒より
大村高校マラソン大会がどういう経緯ではじまったのか?こちらに書きました。
マラソン大会第一回~第三回まで優勝し、北九州マラソン大会でも優勝した橋口先輩のことを少し詳しく書きます。
旧制中学は5年生でした。橋口先輩は、5年間無遅刻無欠席。しかも、自宅があった竹松から、駆け足で通学。放課後は靴を脱ぎ、ハダシで走って帰宅していたエピソードがあります。
*当時、靴が高価で、靴が早く消耗しないようにとの意味で、靴は大切に扱われました。また、当時は運動靴、スニーカーというものがこの世になく、走る場合は運動用の足袋[たび]を用いた時代でした。
決して裕福な家庭ではなく、母子家庭でした。十二才の時に、父親を失い、当時32才の母親から家庭できびしい教育を受けました。当時は母子家庭に対する手当など何もない時代です。学費も無料ではなかった時代です。
*日本人の平均寿命は、明治・大正時代は40才代。50才を超えたのは昭和22(1947)年です。したがって、当時、女性は18才くらいで結婚していました。二十歳までに二人ぐらいの子供がありました。わたくしの両方[父方、母方]の祖母も17で結婚して20歳までに2~3人の子供をもうけました。100年前で、医療技術が発達しておらず、人生が短かったし、たくさん子供を産まないと、何人が育つかわからないような状況でした。
第二次大戦前の平均寿命(明治生命)
そのお母様から「これからは英語ができないとダメだ」と言われ(100年前の大正時代です)、旧制大村中学入学後は、英語は、卒業まで満点を取り続けました。
大村の旧制中学時代に英語を猛烈に勉強したことは、のちに橋口先輩が、世界史・日本史の教科書に登場する1930年のロンドン会議(軍縮会議)に出席した時に役立ちます。
大村で生まれ育ったマラソン好きの少年が、後に、世界の檜舞台(ひのきぶたい)に出席することなど、在校時は、まったく予想もつかないことでした。在校生は、今勉強していることは、今は役立たないかもしれないが、あとで、予想もつかないことに役立つことがあることを知っておきましょう。
旧制大村中学で、当時の英語は、錦戸(にしきど)先生。錦戸先生は、米国大統領セオドア・ルーズベルトの娘アリス・ルーズベルトが大村訪問時、会話した英語の先生でした。
錦戸先生とアリス・ルーズベルト
*錦戸先生の子孫(孫)は、大村高校から、東京の大学に進学し、日本を代表する企業であるパナソニックの役員となり、東京大村会の会長を務められました。
さて、話を元に戻します。橋口先輩は、無遅刻無欠席、しかも竹松から毎日往復12キロを走り、英語が満点だった橋口先輩は、旧制第五高校・理科系に合格。当時、九州に高等学校は4校しかありませんでした。
ナンバースクールでは、熊本の五高、鹿児島の7高。ネームスク-ルが、福岡の福岡高校、佐賀の佐賀高校でした。
五高から、東大工学部船舶工学科に進学。卒業して帝国海軍の技術部に入り、ベルリン(ドイツの首都)留学中に、世界史・日本史の教科書に登場する1930年代のロンドン会議で、山本五十六(やまもといそろく)海軍大将の仕事を迅速・正確に処理して、海軍内で昇進し、川西飛行機(現在の新明和工業)へ。
川西飛行機では、現在のUS2につながる九七式飛行艇、二式大艇(にしきたいてい)の開発責任者でした。そして海軍の戦闘機である紫電改(しでんかい)を開発しました。
US2:大村で実施された離水
当時、旧制大村中学では、紫電改(しでんかい)の開発者が大村の先輩だということが知られていたそうです。
産経新聞 紫電改
「紫電改のタカ」・・・戦後マンガになった紫電改の話
参考文献:大村高校百年史、野口山荘随筆