現在の大村と1300年前の奈良・平城京とのつながり

奈良のシンボル せんとくん

まだ、長崎市の領域には人が住めないジャングルだったころです。

すでに大村は、多数の人々の生活があり、平城京の大和朝廷から発せられる詔(みことのり)がおよんでいました。遠い昔の話で、現在とは何もつながりがないと考えているかもしれません。

しかし、現実は、大村の大村市立郡(こおり)中学校周辺には、平城京が都だった奈良時代(710年~784年)以前の、条里制のあとが残っています。
大村市観光ナビより。大村市に残る古代の条里制です。
条里制

そして、753年に唐から日本にやってきた鑑真(がんじん)が、759年平城京〔奈良)に建てた唐招提寺(とうしょうだいじ)は、当時から一度も火災にあうことなく、1200年以上前の、当時の建物がそのまま残っています。

唐招提寺

奈良時代・平城京の唐招提寺、そして大村の条里制。大村は古代の日本史とつながっています。長崎市は古代の日本史とつながっていません。ジャングルでしたから。佐世保市も、古代の日本史につながっていません。やはり長崎市と同じく佐世保市もジャングルでした。

長崎市に入る直前にJR「道の尾」と言う駅があります。なぜ、道の尾道の最終地点なのか?それは、大村純忠が1570年に、長崎を開港するまで、道の尾から先には町がなく、ジャングルだったことを示しています。

道の最終地点。この先には道がなく、大村純忠が開港するまで長崎はジャングルだった。

道の最終地点。この先には道がなく、大村純忠が開港するまで長崎はジャングルだった。

中世には、すでに大村には町がありましたが、長崎と佐世保は人跡未踏(じんせきみとう)のジャングルでした
地図でわかりますが、長崎には町がありません。

山川出版 教科書 詳説日本史 中世の都市は、西九州は博多、太宰府、名護屋、大村。 長崎も佐世保も諫早も島原もない。

山川出版 教科書 詳説日本史
中世の都市は、西九州は博多、太宰府、名護屋、大村。
長崎も佐世保も諫早も島原もない。

さて、先日、奈良に行きましたので、唐招提寺の写真を貼っておきます。東京から京都までは新幹線で約2時間。京都から奈良までは電車で50分。正倉院の宝物殿と同様、唐招提寺の校倉(あぜくら)作りの倉も、平城京があった奈良時代から、現在もそのままに残っています。やはり、修学旅行は、日本人としての原点である京都・奈良が最適なんじゃないでしょうか。

JR奈良駅

JR奈良駅

世界遺産 唐招提寺

世界遺産
唐招提寺

天平時代のままの姿が残る唐招提寺

奈良時代のままの姿が残る唐招提寺

*奈良のホテルには現代語訳の古事記が常備されてました。
奈良 古事記

それから、唐招提寺の柱、ギリシアのエンタシスという技法が用いられています。ギリシアは石で、日本はギリシアの技法を木で実現したんですね。ギリシアと日本のつながり、アレキサンダー大王のヘレニズムは日本にちゃんと伝わっていたんですね。

エンタシスの技法が用いられた唐招提寺の柱

エンタシスの技法が用いられた唐招提寺の柱

柱は、江戸時代に修復され、柱に横線がありますが、柱の上が約1300年前の奈良時代、下の部分は300年前の江戸時代のものだそうです。

唐招提寺の柱 上部が1200年前 下部が江戸時代

唐招提寺の柱
上部が1300年前
下部が江戸時代

唐招提寺の仏様、仏師は、中央アジアのソグド人だったことがわかっています。鑑真と共に唐からやってきたんですね。西暦2000年代、現代の平成になり、唐招提寺の仏様補修時に、仏様の右手に貨幣が埋め込まれていたことがわかったそうです。子供が産まれたときに、右手にコインを持たせるソグド人の習慣、仏様にも適用してあったそうです。唐招提寺のお寺の内部は撮影禁止でしたので写真はありません。唐招提寺のホームページの写真で、仏様をご確認ください。

ソグド人は現在は、もういません。ソビエト連邦がおこなった社会主義の失敗で、水がなくなり干上がってしまったアラル海のアム川・シル川に近い地域に住んでいたいのがソグド人です。
ソグディアナ

鑑真が日本にやってきたころを描いたマンガがあります。手塚治虫の「火の鳥・鳳凰(ほうおう)編」です。唐招提寺、奈良時代からそのまま残っているので、茜丸(あかねまる)と我王(がおう)が、本当に出てきそうな感じがしました。

もっと古くは、大村の玖島。第十二代景行天皇が九州行幸の際に、玖島という地名を名付けられました。

第十二代 景行天皇

第十二代 景行天皇

大村の市役所が玖島から動かない理由、わかると思います。古くから由緒あり、地名が続いているということは、戦乱にも飢饉(ききん)にもまきこまれない土地だという証明なのです。景行天皇の息子が、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

いずも(現在の島根県)で、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち=8つの頭と8本の尾を持った大蛇)を退治し、尾を割いてみたら、鋭い剣(つるぎ)が出てきました。それが、草薙(クサナギ)の剣(つるぎ)です。

その草薙(クサナギ)の剣(つるぎ)を使い、困難な場面で使い、窮地を脱することができたのが、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。その草薙(クサナギ)の剣(つるぎ)がシンボルとなっている日本海軍(海上自衛隊)の軍艦が「いずも」です。

ところで、まもなく日本海軍(海上自衛隊)に就役するヘリ空母「いずも」のシンボルマークをご覧下さい。

いずも

海上自衛隊の説明 こちらから引用

「いずも」という名前から受けるモチーフをわかりやすく表現しました。
“ヤマタノオロチ”を背景とし、そのヤマタノオロチを討伐した際に生み出されたとされる“天叢雲剣(草薙の剣)”を中心に配置することによって、圧倒的な力を抑え込むさらなる強力な存在というイメージで表現しました。
また隠し要素として円形としたヤマタノオロチを赤色にすることで、日の丸のイメージも盛り込んであります。

この場合、日本の軍艦「いずも」が草薙の剣。退治された八つの頭を持つ八岐大蛇(やまたのおろち)が、東南アジア各国と日本への侵略をたくらんでいる支那(中華人民共和国)だと考えて良いのではないでしょうか。日本の軍艦「いずも」は、中華人民共和国海軍を押さえ込むための軍艦だというアピールです。

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