沿革

沿革

大村高校は全国で2番、九州で1番に開校した学校。
大村高校

日本歴史大事典(小学館発行 / カシオ電子辞書版)より 1670年 四代藩主 大村純長が開校した大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)

日本歴史大事典(小学館発行 / カシオ電子辞書版)より
1670年 四代藩主 大村純長が開校した大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)

九州伝統五校

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Ⅰ.大村高校前史(五教館時代)

「日本の名門高校」より

「日本の名門高校」より

寛文10(1670)年 集義館(しゅうぎかん)設立
玖島城内桜馬場。場所は、現在の大村高校ボート部艇庫先の長崎県教育研修センター付近。

ポルトガル人が来航していた御船蔵後(おふなぐらあと) 左側、現在の大村高校ボート部艇庫

ポルトガル人が来航していた御船蔵後(おふなぐらあと)
左側、現在の大村高校ボート部艇庫

長崎市が古さを自慢する立山の長崎奉行所ができたのが、大村の集義館(しゅうぎかん)より3年あとの延宝元年(1673年)。

当時、長崎に学校はありませんでした。大村の殿様の先見性を感じます。

天領(徳川領)というのが長崎市。現在の長崎県の領域は大村藩、平戸藩、五島藩、対馬藩、島原藩、そして佐賀藩が主流でした。長崎市は、大村領→豊臣領→徳川領(天領)と領主が変わり、明治を迎えます。
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もともと長崎は大村領で、長崎が港に適しているとして、開港したのは大村氏で、その大村氏の家来(けらい)が長崎氏でした。大村の家来で、大村を裏切らないことと引き替えに長崎氏は、大村純忠公の娘と結婚しました。しかし、長崎氏はすぐに滅びました。大村家は、現在も続いています。

なお、長崎市の文書・歴史書を見ると、長崎氏が、大村氏の家来(けらい)だったことが隠してあり、さまざまな文書にわざと書かれていませんので、気にとめておくと、何かの機会に事実がわかってくると思います。長崎氏は封建時代の家来なので、殿様の大村氏と、家来の長崎氏が対等だったということはないのです。

大村高校の前身・集義館より3年後にできた、長崎・立山の長崎奉行所 復元

大村の集義館の3年後にできた長崎・立山の長崎奉行所

大村の集義館の3年後にできた長崎・立山の長崎奉行所

・元禄 7(1679)年 静寿園(せいじゅえん)と改称

・寛政 2(1790)年 五教館(講学所)と治振軒(演武場)を大村城外桜田屋敷に建設

・明治5(1873)年11月 五教館 廃校
五教館だけが廃校とされたのではなく、明治政府の「学制」制定によって全国のすべての藩校が廃止された。

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五教館は202年間続いた。現在の大村高校はまだ、131年目(平成27年、2015年現在)。

五教館の校舎は、現在、大村市立大村小学校に黒門(くろもん)として、現存。

昭和時代、平成時代の大村小学校では、卒業式の日、黒門を通ることができる。黒門を出て、赤門(東大)、白門(中央大)にすすんだ大村小学校卒業生も多い。

五教館時代は、藩主(大村の殿様)のみが黒門を通ることができた。

旧制

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Ⅱ-1.旧制中学校時代
明治17(1884)年 11月 私立大村中学校創立

長崎県と長崎県知事は、大村に旧制中学校ができることに反対していたので、開校を歓迎しないで、開校妨害をして、嫌がらせをしました(歴史的事実)。そして、開校時に、挨拶の訪問さえもしませんでした。一度も顔を見せませんでした。

長崎県知事は一度も訪問しませんでしたが、アメリカ合衆国領事、日本国の初代文部大臣、そして帝国海軍の中将(帝国海軍のNo.2)が大村高校を訪問されました。

明治18(1885)年 12月 アメリカ合衆国 パーク領事の来観を受ける

創立者の大村純雄(おおむらすみお)伯爵が、米国のトップ(ノーベル賞受賞者数で世界一の大学)ハーバード大学卒業生であったつながりで。

ハーバード大学出身 大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

ハーバード大学出身
大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

大村高校創立エピソードはこちらです。

明治19(1886)年 9月 私立尋常(じんじょう)大村中学校と改称

明治20 (1887) 年 2月27日 文部省 森有礼(もり ありのり)文部大臣の訪問。倫理と作文の授業について、森文部大臣により指示を受ける

森有礼(もり ありのり)文部大臣。薩摩出身

森有礼(もり ありのり)文部大臣。薩摩出身

*森有礼(もりありのり)文部大臣は、上小路(うわこうじ)に宿泊されました。宿泊された家は、現在も一部が残っています。宿泊先を提供された方の子孫がこの写真に写っています

大村市上小路

明治20 (1897) 年 3月 帝国海軍 赤松 則良(あかまつ のりよし)海軍中将、真木 長義(まき ながよし)海軍中将が来観

赤松則良 海軍中将 赤松中将の娘が、小説家・森鴎外(もりおうがい)の妻。 赤松中将は、1860年・日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸(かんりんまる)で渡米したメンバー。

赤松則良 海軍中将
赤松中将の娘が、小説家・森鴎外(もりおうがい)の妻。
赤松中将は、1860年・日米修好通商条約批准書交換の
使節団に随行し、
咸臨丸(かんりんまる)で渡米したメンバー。

↑赤松中将は、宇宙戦艦ヤマトの沖田艦長のような風貌に見える。↓

宇宙戦艦ヤマト  沖田十三 (おきた じゅうぞう) 艦長

宇宙戦艦ヤマト 
沖田十三
(おきた じゅうぞう)
艦長

真木 長義(まき ながよし)海軍中将  戊辰(ぼしん)戦争で、電流丸艦長として活躍。退役後、男爵(だんしゃく)となる。

真木 長義(まき ながよし)海軍中将 
戊辰(ぼしん)戦争で、電流丸艦長として活躍。
退役後、男爵(だんしゃく)となる。

明治29(1896)年 5月 私立尋常中学玖島学館(くしまがっかん)と改称

明治31(1898)年 4月 長崎県尋常中学玖島学館と改称

明治34(1901)年 4月 長崎県立中学玖島学館と改称

大正 8(1919)年 4月 長崎県立大村中学校と改称

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大正11(1922)年 4月 北高来郡(きたたかきぐん)諌早村に諌早分校設立(大正12年1月長崎県立諌早中学校となる)

*大村の分校として開校した諫早高校が事実を公表しない理由

【在校生向け】大村の分校だった諫早高校が世間に伝えていないこと

諫早高校

大村高校の分校だった諫早高校

大村高校の分校だった諫早高校は、平成22年(2010)、幕末の咸臨丸(かんりんまる)にあやかって、文化祭のテーマを、出航!!諫臨丸(かんりんまる)として実行しましたが、諫早高校は本物の咸臨丸とは縁もゆかりも、何のつながりもありません(事実)。

大村高校の前身・旧制大村中学は、明治20年(1897)年3月、本物の咸臨丸乗組員だった、帝国海軍・赤松(あかまつ)中将の訪問を受け、咸臨丸とはつながりがあります。

赤松則良 海軍中将 赤松中将の娘が、小説家・森鴎外(もりおうがい)の妻。 赤松中将は、1860年・日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸(かんりんまる)で渡米したメンバー。

赤松則良 海軍中将
赤松中将の娘が、小説家・森鴎外(もりおうがい)の妻。
赤松中将は、1860年・日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸(かんりんまる)で渡米したメンバー。

参考:軍の階級
大将・中将・少将
大佐・中佐・少佐
大尉・中尉・少尉
*大佐(たいさ)で部下3000人くらい、大手企業の役員クラス。海軍兵学校・陸軍士官学校(現在の防衛大学校)を卒業すると。最初から少尉の階級で、部下20人くらい。

昭和 3年11月 校歌制定

昭和 8年 5月 本校新築校舎落成

昭和8(1933)年~昭和63(昭和最後の年、1988)年12月まで、55年間使用した校舎

大村高校旧校舎 正門より撮影

大村高校旧校舎 正門より撮影

昭和8(1933)年 新築当時の大村高校旧校舎の屋上。当時は、朝礼は屋上で開催されていた。この写真の中に、後に、日本人として初めて世界銀行副総裁となる服部正也先輩の姿があります。

昭和8(1933)年 旧制大村中学屋上。服部先輩がこの中に。多良岳を背にして、大村公園方面に向け撮影してあります。壇上は校長先生です。グラウンドにはサッカーゴールのような設備が見えます。現在の体育館の場所は、まだ水田です。国道34号線は、まだ、ありません。

昭和8(1933)年 旧制大村中学屋上。服部先輩がこの中に。多良岳を背にして、大村公園方面に向け撮影してあります。壇上は校長先生です。グラウンドにはサッカーゴールのような設備が見えます。現在の体育館の場所は、まだ水田です。国道34号線は、まだ、ありません。

服部先輩のこと

【在校生向け】日本人初の世界銀行副総裁となった服部正也(はっとり まさや)先輩 1

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昭和23年 4月 長崎県立大村高等学校と改称

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Ⅱ-2 旧制大村高等女学校
明治44(1911)年 8月 東彼杵郡立大村実科高等女学校設立

大正8(1919)年 4月 東彼杵郡立大村高等女学校と改称

大正11(1922)年 4月 長崎県立大村高専女学校と改称

昭和9(1934)年 4月 長崎県女子師範学校(長崎大学教育学部の前身)と併設
(昭和18[1943]年4月女子師範は長崎師範学校女子部となる)

昭和23(1948)年 4月 長崎県立大村女子高等学校と改称

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高女とボート
校内ボートレースは、昭和31(1956)年廃止されましたが、ボート部は昭和51(1976)年復活しています。

Ⅲ.新制高校時代(現在)
昭和23(1948)年 4月 新制大村高等学校 初代校長に梅田倫平(うめだ りんぺい)氏が就任。

梅田氏は、旧制大村中学時代から、名校長としての誉れが高かった。

昭和23(1948)年 11月 大村高等学校、大村女子高等学校、そして大村農業高等学校を統合して、長崎県立大村高等学校と改称

大村城南 長崎明誠

昭和24(1949)年 4月 被服科及び別科を設置、定員各40名(別科は昭和26年3月廃止)

昭和24(1949)年 3月 初代校長・梅田倫平(うめだ りんぺい)氏は、長崎東高に転出。梅田氏は長崎東高等学校において、第二代校長となる。
*大村高校校長の後に、長崎東高に転出され、混乱していた長崎東高の立て直しに尽力された。

昭和24(1949)年 4月 第2代校長・藤本藤治郎氏就任

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昭和24(1949)年 5月25日 天皇陛下が大村高校に。

大村高校は、長崎県内ではただ一つの、天皇陛下の行幸を賜(たまわ)った高校です。大村高校の御幸橋(みゆきばし)はその時に名付けられました。橋の題字を書かれたのが、当時の大村高校書道の山本先生でした。

【在校生向け】昭和の日、そして天皇陛下をお迎えした大村高校

この日、大村高校在校生として天皇陛下の歴史的な行幸に立ち会えた志摩篤(しまあつし)先輩(大村高校5回卒)は、防衛大学校に進学。防衛大学校1期生となり、後に防衛大学校初の陸上自衛隊のトップである幕僚長(ばくりょうちょう)に就任。防衛省を退官後、勲章を受章され、皇居に参内(さんだい)、天皇陛下に謁見する栄誉を賜っています。

偕行社(かいこうしゃ)[戦前から続く、陸軍・陸上自衛隊幹部となった方々の会]理事長となった志摩先輩の講演

大村高校からは、戦前は陸軍トップの帝国陸軍・大将となった福田雅太郎(ふくだまさたろう)先輩。戦後は、陸上自衛隊トップとなった志摩篤(しまあつし)先輩を輩出(はいしゅつ)しています。

福田雅太郎 先輩

福田雅太郎
先輩

福田先輩は、日清戦争時、第一師団副官。そして日露戦争時、第一軍参謀でした。のちに陸軍のトップである陸軍大将でした。

【動画あり】日清戦争、日露戦争、そして大村高校

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昭和24(1949)年 5月 定時制普通科(夜間)1学級設置(定員40名)
昭和24(1949)年 10月 第3代校長・斎藤 進氏就任

昭和26(1951)年 4月 農業部は分離独立して長崎県立大村農業高等学校となる。
昭和28(1953)年 4月 被服科に代わり家庭課程を置く。(定員80名)
昭和28(1953)年 4月 定時制普通科(夜間)2学級となる。(定員80名)
昭和28(1953)年 5月 補習科を附設、1学級(昭和31年8月廃止)
昭和29(1954)年 4月 第4代校長・甲斐成実氏就任

昭和31(1956)年 4月 第5代校長・中村健次郎氏就任
昭和32(1957)年 4月 生徒募集定員全日制普通課程240名、家庭課程80名に改む。
昭和32(1957)年 4月 第6代校長・佐々木良親氏就任
昭和34(1959)年 4月 生徒募集定員全日制普通科270名、家庭科90名に改む。

昭和36(1961)年 4月 第7代校長・大町正三氏就任
昭和38(1963)年 4月 生徒募集定員全日制普通科300名、家政料100名、定時制普通科100名に改む。
昭和38(1963)年 4月 第8代接長・松永利雄氏就任

昭和43(1968)年 4月 生徒募集定員全日制普通料288名、家政料96名、定時制普通科92名に改む
昭和44(1969)年 4月 生徒募集定員全日制普通料282名、家政科94名、定時制普通科88名に改む
昭和45(1970)年 4月 生徒募集定員全日制普通科276名、家政料92名、定時制普通科84名に改む
昭和45(1971)年 4月 第9代校長・柴江豊三郎氏就任

昭和46(1972)年 4月 生徒募集定員全日制普通科270名、家政料90名、定時制普通科80名に改む
昭和47(1972)年 4月 第10代校長・石田義信氏就任
昭和49(1974)年 4月 生徒募集定員全日制普通科315名、家政料90名、定時制普通科80名に改む
昭和50(1975)年 4月 第11代校長・川副喜佐男氏就任
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昭和50(1975)年4月から昭和53(1978)年3月までの写真記録:大村高校1000日1000枚

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昭和54(1979)年 4月 第12代校長・郷野 仁氏 就任
昭和57(1982)年 4月 第13代校長・満井録郎氏就任
昭和59(1984)年 2月 百周年記念館「五教寮」竣工
昭和59(1984)年 4月 第14代校長・友永 仁氏就任
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昭和59(1984)年 10月 百周年記念式典挙行:
経団連副会長、日本精工株式会社・代表取締役会長 今里廣記(いまざと ひろき)先輩(旧制大村中学27回卒)、旧制大村中学(39回卒)から旧制第一高校(東大教養部)に一番で合格され、世界銀行副総裁となった服部正也(はっとり まさや)先輩が、百周年記念の講演。

今里先輩の講演は、大村高校百年史 P830-P837に掲載されています。

今里廣記(いまざと ひろき)先輩(1907~1985/明治40年~昭和60年5月)

今里廣記(いまざと ひろき)先輩

今里廣記(いまざと ひろき)先輩

今里先輩の講演を聴いたのは、37回卒、38回卒、39回卒

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昭和60(1985)年 3月 「大村高校 百年史」刊行

昭和62(1987)年 4月 第15代校長・橋本和彦氏就任
昭和63(1988)年 4月 生徒募集定員全日制普通科8クラスに改む

*昭和時代は元年(1926)12月25日から~昭和64(1989)年1月7日まで。1月8日から平成元年となった。

内閣官房長官 小渕恵三(おぶちけいぞう)氏による新元号の発表

内閣官房長官 小渕恵三(おぶちけいぞう)氏による新元号の発表

平成元(1989)年 1月 新校舎(本館)竣工
平成2(1990)年  1月 中庭「語らいの広場」、校門竣工

平成2(1990)年  2月 総合落成式挙行
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平成2年(1990)に卒業した42回卒の特長
42回卒は、1年時に旧校舎を4月から11月までのわずか8か月使用

新校舎落成記念
写真:平成2(1990)年より、現在も使用中の校舎

42回卒は、旧校舎取り壊しから新校舎が完成までの間、プレハブ校舎でガマンし、3年時・卒業前の2月にたった1か月だけ新校舎を使用

40回卒・41回卒は、旧校舎が取り壊され新校舎が完成していなかったため、卒業式は、大村高校から国道をへだてた、現在はなくなっている大村市民体育館で挙行された。

大村高校から国道をはさんだ場所にあった大村市民体育館。昭和49(1974)年撮影

大村高校から国道をはさんだ場所にあった大村市民体育館。昭和49(1974)年撮影。
←写真左側が国道34号線です。

平成2(1990)年、新校舎落成時、卒業生に配布された記念アルバム

平成2(1990)年、新校舎落成時、卒業生に配布された記念アルバム

少し割を食ったかもしれないが、42回卒は、旧校舎も新校舎も体験した唯一の卒業年次。

新校舎落成3

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平成2(1990)年  4月 第16代校長・森 秀一(大村高校3回卒)氏就任
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大村高校1回卒から3回卒までの先輩の特長

当時は、男女別学だった。入学当時は男子は5年制だと思っていたが、卒業時には現在の中高一貫校のような6年制となり、男女共学になっていた。

3回卒の先輩は、戦争が終わる四か月前、1945年/昭和20年4月に、旧制大村中学(5年制)に入学。

旧制48回卒(田崎真珠の田崎会長など)、旧制49回卒、旧制50回卒(貞松病院の貞松先生など)、1回卒そして2回卒の上級生は全員、学徒動員で授業などなく、現在の難民センター付近にあった海軍の工場で、ゼロ戦や紫電改(しでんかい・旧海軍の名飛行機)など、飛行機を製造していた。

アメリカ軍の原爆投下時、旧制大村中学の生徒は、工場内で仕事中、「熱(あ)つっ」とほっぺたにそれまで感じたことがない熱風を受け、多数の生徒が声をあげたそうで、長崎方面からキノコ雲があがったのを目撃したそうです。

入学時は5年制だったが、敗戦で、アメリカ軍の占領統治によりなされた学制改革により、旧制中学が新制高校となり、卒業時は、男女別学が共学になり、6年制として大村高校を卒業された。

第二次世界大戦中の記録
大村高校の先輩が出版された本「不帰春」という書物に、第二次世界大戦中の、旧制大村中学校生徒の記録が残されています。

大村高校の前身・旧制大村中学生徒が残した学徒動員の記録「不帰春(ふきしゅん)」

大村高校の前身・旧制大村中学生徒が残した学徒動員の記録「不帰春(ふきしゅん)」

大村空襲は、中国(国民党の中華民国)軍の補給で、四川省重慶基地から、アメリカ軍のB29爆撃機が、大村に飛んできていました。中国(国民党の中華民国)とアメリカ軍の爆撃によって、旧制大村中学校の生徒5人が亡くなりました。

*日本と中華人民共和国は戦争していません。中華人民共和国は戦勝国ではありません。なぜなら、中華人民共和国の成立は、第二次大戦の4年後・1949年です。無知な学校の先生のウソ、TVや新聞のウソ、中華人民共和国のウソにだまされないように。学校の先生のレベルは、実はたいしたとがない、その事実を知っておこう。

*現在、学校の先生方は「教え子を戦場に送るな」という詭弁(きべん)を使いますが、近代戦においては、すべてが戦場となり、逃げ場はありません。長崎県の教師にだまされないようにしましょう。旧制大村中学校の生徒5人は、戦場ではない大村で亡くなっています。

殉職者

殉職者2

旧制大村中学校の先輩の方々
0式水上戦闘機
この中に、少年時代の、わたくしの父の姿があります。

上記の0式水上機の2年後に登場した、南洋で活躍する二式水上戦闘機
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帝国海軍の二式大艇(にしきたいてい)、紫電改などの開発責任者だった橋口先輩のこと
 100年前に始まった大村高校マラソン大会の第1回〜3回までの優勝者です。
 ロンドン軍縮会議にも出席されました。

【在校生向け】今年度、大村高校マラソン大会は百周年を迎えます

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平成4(1992)年  9月 体育館竣工 11月 落成式挙行
平成5(1993)年  3月 グランド整備
平成5(1993)年  4月 第17代校長・辻本義典氏就任

平成 6(1994)年  3月 商館・東館、改修工事
平成 6(1994)年  4月 全日制理数科設置(1学級定員40名)全日制普通科7クラスに改む
平成 6(1994)年 10月 創立110周年記念庭園竣工
平成 6(1994)年 10月 創立110周年記念式典
平成 8(1996)年 4月 第18代校長・浦 信 好氏就任
平成 9(1997)年 1月  図書室改修(魅力ある図書館づくり)
平成 9(1997)年 3月  南舘(家政科実習室・トイレ)改修
平成 9(1997)年 3月  環境整備工事(語らいの広場)
平成10(1998)年 3月 第2体育館竣工
平成10(1998)年 4月 第19代校長・定方郁夫就任

平成12(2000)年 3月 ハンドボールコート・パソコン室・テニスコート整備
平成12(2000)年 4月 生徒募集定員全日制家政科1学級に改む
平成13(2001)年12月 校内LAN整備
平成14(2002)年 4月 第20代校長・嘉藤保則就任
平成15(2003)年 2月 テニスコートフェンス整備
平成15(2003)年 3月 グランド防球ネット(高さ15m)・第2パソコン室整備
平成15(2003)年 4月 第21代校長・永留弘幸就任

平成16(2004)年 1月 南館・東館外部改修
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平成16(2004)年10月16日 創立120周年記念式典挙行

日本経済新聞社 代表取締役社長(当時) 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩(大村高校8回卒)が、創立120周年記念講演。演題は、「世界の中の日本と若人への期待」

大村高校で講演 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩 経歴:大村高校8回卒→横浜国立大学経済学部卒→日本経済新聞社入社 →社長→会長

大村高校で講演 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩
経歴:大村高校8回卒→横浜国立大学経済学部卒→日本経済新聞社入社
→社長→会長

杉田先輩の講演を聴いたのは、57回卒、58回卒、59回卒

28回卒の荒木三郎先輩のこと

【在校生向け】経済界で活躍中の大村高校の先輩を紹介します

【在校生向け】三菱東京UFJ銀行の副頭取に、大村高校の先輩が就任されました

まだまだ歴史は続いていきます。

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