**数学する人生 岡潔(おかきよし)著より
情緒による志望校選び。そして旧制一高(東大)、旧制三高(京大)文化を残す大村高校
学校には目に見えない校風があり、影響を受ける
学校には校風があります。どういう経緯で学校ができ、どういう人が卒業生として出たのかで、校風による影響がわかります。
大村にある心の自由、地元の武士による統治
たとえば、大村は、江戸時代にも心(内面)の自由がありました。自由にはルールがあります。キリスト教を信仰してはいけない、殿様、徳川将軍、朝廷(現在の皇室)を批判してはいけないことなどです。最低限のルールを守れば、あとは自由がありました。つまり、心の自由、内面の自由がありました。だから、大村では江戸時代から、学問や実業を志す人が出続けています。
勉強ができると評判の少年(武士ではなく平民)を殿様が面接。人物が良いとわかり、大村の藩校・五教館(ごこうかん)に、少年は入学許可され、その後、江戸時代の最高学府である昌平黌(しょうへいこう、現在の東大教養学部)に進学。その少年は学者になることができました。
佐賀の植民地だった諫早では弾圧が続いた
ところが、諫早はそうではありません。佐賀藩の植民地でした。弾圧されていました。諫早一揆が起きました。自由な思考ができませんでした。心の自由がなかったようです。だから、文学で気をまぎらわせました。佐賀藩は、そういう統治をしました。
約300年も続いた佐賀藩の政策。心の自由がなく弾圧(一例として、飢饉による餓死者多数のほか諫早一揆:大村藩と鹿児島の薩摩藩は飢饉でも餓死者がゼロ)された社会から逃避するという理由で、諫早では、いまだに、文学を志す人が出ます。徳川領(天領は徳川領)だった長崎市も同様です。
限定的な(よその武士から与えられた町人の限定された)統治で満足した長崎市
ほか、長崎市の文化は単調なのです。大阪と同じで、地元の武士がいません。よそからきた武士による限定的な自治で満足する商人によるもの。
武家と商人の多様性のある文化は、大村もそうですが、博多(商人が博多で、武家が福岡)、名古屋、その他の城下町がそうで、大阪や長崎とは違うように思います。
ただ、大阪は古くからの神社仏閣がありますが、長崎市は江戸時代以前の文化が何もありません。大村は弥生時代から人が住み続け、朝廷による条里制や三世一身法など、古代の日本の歴史につながっていますが、長崎市はつながっていないようです。
情緒により、校風による志望校選択
さて、情緒により校風で志望校選択をした話がでていた本を見つけましたので、紹介しておきます。
大村高校応援歌は東大、京大になぜかつながっていました
大村高校応援歌は、戦前の旧制第一高校(現、東大教養部)と、旧制第三高校(現、京大教養部)に進学した先輩が持ち帰ったものが残っています。夏休みなど、休みに帰省した先輩が口述で教え、節回しがほぼ同じで、歌詞が替え歌になっています。
たまたま、一高の自治をあらわした歌も、三高の自由を表現した歌も、両方ともに旧制大村中学を経て現在の大村高校の応援歌に取り入れられています。知らず知らずのうちに、大村高校生に影響を与え続けてきたものです。
一高(東大教養部)と三高(京大教養部)の情緒に関する部分を最もよく表現している寮歌。
一高(数学する人生より引用)
*一高〜八高の資料:神奈川県立公文書館より
一高(東大)と三高(京大)の寮歌と大村高校の応援歌を検証してみました
「東大の校歌じゃないでしょ」と寮歌をバカにする方がいるかもしれませんが、東大に校歌はありません。現在もありません。なお、東大の学長に、長与専斎先輩の息子さんである長与又郎氏が就任した事実があります。
東京大学・長与又郎
東大校歌のかわりの東大寮歌の作曲者は、旧制大村中学校歌の作曲者と同じく山田耕作(やまだこうさく)氏です。
東大、慶應、学習院の校歌と大村高校
ところで、旧制大村中学校校歌の作曲は、東大寮歌と同じで、山田耕作(やまだこうさく)氏。
長崎県が無理やり廃止させた旧制大村中学校校歌。他都道府県では、旧制中学校歌を廃止させませんでした。今と同じで、長崎県の教育行政は、昔から間違ってきたのです。
山田耕作氏が作曲した全国の旧制中学校校、問題がある長崎県庁の教育行政
長崎県によって大村高校だけ旧制中学校校歌が廃止させられています。バカなことを続けてきた長崎県の教育長と教育行政。
佐世保北高バラバラ殺人事件を筆頭に、長崎県の教育で変なことばかり起きるのは、問題がおきても責任を取らず、バカなことをし続けてきた長崎県庁と長崎県教育委員会に大きな問題がありそうです。
長崎県庁や長崎県教育委員会を信用しないこと。
日本国民なのに、日本の伝統文化を破壊して、児童・生徒、そして県民を中国・韓国の奴隷にするのが、長崎県庁と長崎県教育委員会の役目なのですか?
あるいは、特定の利益集団(反日勢力)のための洗脳教育を続けるのが、長崎県庁と長崎県教育員会の役目なのですか?
繰り返しますが、長崎県庁や長崎県教育委員会を信用しないことです。
山田耕作氏が作曲した全国旧制中学校一覧 Wikipediaより
教育長も校長も、誰も責任を取らなかった佐世保北高バラバラ殺人事件
現在の大村高校作曲者
そして、大村高校校歌の作曲者は、慶應義塾大学の塾歌(校歌)、学習院大学の院歌(校歌)と同じ、信時潔(のぶとききよし)氏です。
長与先輩のこと、そして小説家・夏目漱石
大村・五教館を出た後に大阪の適塾(大阪大学医学部の前身)に進学した長与専斎先輩は、日本国の初代・衛生局長になっています。
息子の長与又郎(ながよまたお)は、東大学長になり、小説家・夏目漱石(なつめそうせき)の主治医でした。この当時のこと、そして東京の長与病院のことは、谷口ジローのマンガ「坊ちゃんの時代」に描かれています。
大村高校応援歌「三艇の賦(さんていのふ)」と旧制一高「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて 」
さて、ここで、まず旧制一高(東大教養部)の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の動画を視聴いただきながら、音楽にあわせて大村高校応援歌「三艇の賦(さんていのふ)」の歌をうたってみてください。節回しが、ほぼ一致します。
伝承通りに、「三艇の賦(さんていのふ)」は、旧制一高に合格した大村の先輩方が夏休みに帰省し、東京の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の節回しを大村に口伝(くでん)したということが、おそらく立証されると思います。
旧制一高(東大教養部)の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の動画
旧制大村中学(大村高校)「三艇の賦(さんていのふ)」歌詞です
三高(数学する人生より)
大村高校「壮行歌」は、旧制三高(京都大学教養部)の「紅萌(くれないも)ゆる岡の花」
東大(旧制一高)に続き、京大(旧制三校)も間違い無いでしょう。
「紅萌ゆる岡の花」は十一番までありますが、大村高校壮行歌は三番までです。旧制三高に進学した大村の先輩方も、さすがに十一番までは詩文が創作できなかったのだと思われます。
*読み方
1.男子(だんし)一度(ひとたび)立たん時
2.風雲 逆巻(さかま)き襲いきて
男子(おのこ)の脾肉(ひにく)
3.悠久(ゆうく)の義に生きんかな
旧制中学時代に、大村高校には東大と京大のDNAが入った
大村高校には、旧制高校文化である一高の自治の精神も、三高の自由な精神も、二つのDNAがちゃんと入っていて、現在まで残されていたんですね。
数学者・岡潔(おか きよし)氏とは、どんな人だったのか?
動画による解説:「数学する人生」岡潔(おか きよし)氏について
視野が狭く、共産主義思想を持つ長崎県の教員や、長崎県教育委員会にだまされないようにしましょう
長崎県の教員たちや、長崎県教育委員会の方々は、共産主義の影響をたっぷり受けて、過去を否定し、歴史や伝統を捨てさせて、文化を破壊する方々が主流です。そして、反日思考でかたまり、共産主義の思考から抜け出せない方々が大半ですので、生徒は教員たちや長崎県教育委員会の影響を受けないようにしましょう。