*京阪(けいはん)電車の広報誌・京阪エキスプレスより:くらわんか花火大会
枚方は「まいかた」と発音しません。「ひらかた」と発音します。
大阪の「くらわんか」と大村藩
「くらわんか」方式の「くらわんか」という言葉が現在まで残り、花火大会まで実施されています。
くらわんか花火大会の臨時列車増発(京阪電車)
京阪電車路線図
大村藩の大阪での波佐見(はさみ)焼販売方法
大村藩が藩の収益事業として、どのようにして波佐見焼きを販売していたか(小売)?それが「くらわんか」方式と呼ばれるセット販売方式。
「大人の和食器入門」(宝島社)というムック本に波佐見焼の「くらわんか」販売方式が書いてありました。
以下は宝島社の「大人の和食器入門」より
大村藩は成功していた
大村藩は食器の大量生産に成功していました。
当時、磁器の食器は価格が高く、手が届かない庶民向けに、大村藩(波佐見は大村藩でした)は食器を大量生産し、大阪の淀川で船で安く販売していました。
波佐見で焼いた磁気は、川棚から船で大村湾を経由して大村藩の大阪蔵屋敷(くらやしき)に。それから小売されました。
宝島社の「大人の和食器入門」より
大村藩の大阪蔵屋敷
大村藩の大阪蔵屋敷の跡は判明しています。現在、大阪市のNTTテレパーク堂島第二ビルの場所です。
江戸時代、大村藩の大阪蔵屋敷があった場所、現在はNTTテレパーク堂島第二ビル:Wikipediaより
大村藩 大阪蔵屋敷について↓写真とともに詳しく解説
大村藩・大阪蔵屋敷と適塾(てきじゅく)、そして長与専斎
付け加えですが、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)で学んだあと、長与専斎が進学した大阪大学の前身・適塾(てきじゅく)。大村藩の大阪蔵屋敷から徒歩13分の場所です。
大阪大学と適塾、そして大村高校のこと
大阪大学初代総長が、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)出身の長岡半太郎先輩。大阪大学理学部を創設。
大阪大学二代総長が、旧制大村中学一期生→旧制一高→東大医学部卒の、楠本長三郎(くすもと ちょうざぶろう)先輩。
楠本先輩は、大阪大学医学部を創設し、大阪大学卒業時、成績優秀者に贈る「楠本賞」(くすもとしょう)を創設。
楠本賞について
楠本賞受賞者:大阪大学卒業生の名誉となっている賞
以下のリンク先、後半部分に適塾、大阪大学、大村高校について解説
大阪大学と大村高校
まとめ
大村藩は江戸時代、食器を普及させ、庶民の生活向上に貢献したのですね。
1.大村藩は、食器の大量生産に成功し価格を安くできた、
2.人口が集積していた大阪で販売した、
3.大阪は水都(すいと)と呼ばれ、船が現在の自動車+鉄道のような交通手段だった。
諸条件が揃い、うまくいったのでしょう。
また一つ明らかになったこと
また一つ証明されていますが、長崎や佐世保、そして諫早は、東京にも大阪にも、かかわる場所がなく、活躍した人物が出ていません。大村は、さまざまな場所と関わりとつながりがあり、活躍する人物が出ています。
田舎(いなか)とは、他の場所と関わりがなく、閉じこめられた場所で閉鎖的なメンタルの人々が居住している場所のことを指しますが、この意味で、大村は、田舎ではありません。