*イザベラ・バードの日本紀行がマンガになっていたことは知りませんでした。
さて、長崎県庁からさんざん嫌(いや)がらせをされましたが、長崎県庁のしつこい嫌がらせをはねのけ、大村のみんなで力を合わせ、私立大村中学が開校したのが明治17(1884)年。開校にあたり、長崎県は大村に1円のお金も出しませんでしたし、挨拶もよこしませんでした。嫌がらせをチマチマするのが、明治から現在までの長崎県の姿勢のようです。
その私立大村中学開校6年前、つまり明治11(1878)年、イザベラ・バードは来日し、横浜港に上陸します。
*イザベラ・バードを知らない人へ
イザベラ・バードが日本を探検するにあたり、イザベラ・バードに通訳を紹介したのが、今、あなたがローマ字入力で利用している日本語ローマ字表記を考案したジェームズ・ヘボンというアメリカ人です。
「ふしぎの国のバード」より
ほんとうは、ヘボンではなくヘップバーンと発音するのですが、当時の日本人にはヘップバーンがヘボンと聞こえたようで、ヘボンとなりました。
別の意味で、銀杏(いちょう)のことを英語でギンコウといいます。諸説はありますが、明治の初めに、銀杏(いちょう)の日本語の発音を知らなかった支那(しな)人通訳が、銀杏(いちょう)を音読みでginkgo(ギンコウ)と訳したために、現在も、英和辞典、英英辞典を引いてみればわかるように、銀杏(いちょう)がGinkgo(ギンコウ)という英語になってしまいました。
ところで、このヘボンに直接会い、ヘボンと共に横浜バンドという組織で活動していた大村の先輩がいます。熊野雄七(くまのゆうしち)先輩です。生まれも育ちも大村の玖島。大村高校の前身・五教館(ごこうかん)を出て、浜田少年が戦死した戊辰(ぼしん)戦争に大村藩士として出征し戦いました。
*写真出典
戊辰(ぼしん)戦争の後、大村藩では戦勝パレードが片町から本町で実施され、熊野雄七(くまのゆうしち)先輩は、戦勝パレードに参加しています。この大村藩の戦勝パレードを見て、刺激を受けたのが、当時、五教館(ごこうかん、大村高校の前身)の生徒で、後に北海道大学総長になる南鷹次郎(みなみたかじろう)先輩です(北海道大学編集 南鷹次郎 伝による)。
それから、熊野先輩は、大村藩より派遣され(まだ長崎県というものがこの世になかった時代です)東京へ。最初は儒学を勉強したのだけど、面白くなくなり、福沢諭吉の慶應義塾に入り英学を学びました。
明治時代の初め、江戸時代から続いて、キリスト教は禁止されていました。熊野先輩は、キリスト教に興味を持ったために、現在の国会議事堂となりにあった大村藩の藩邸で、渡邊昇(わたなべのぼり、幕末の剣豪、初代大阪府知事、貴族院議員)先輩から、きびしくしかられて、藩邸では謹慎(きんしん)させられていましたが、明治政府がキリスト教解禁をしたので、なんとか謹慎を解かれたようです。
さまざまなエピソードは省略して、熊野先輩の業績を書きます。
共立女子大の前身である共立女学校の名付け親となり、共立女学校幹事となりました。
明治学院大学創設メンバーとなり、明治学院の教授にもなっています。
なお、当時、ドイツ人が日本にやってきて、大村のことを書いています。