当サイトは、いままでまったく話題にのぼらなかった大村高校に関する歴史上の出来事を、少しずつとりあげ、情報共有してゆくことも目的としています。学問的な論文調で専門家受けする難解なものより、わかりやすく、写真や図表を使い、できるだけ小学校高学年から理解できるような文章・文体にしていくように努めています。
1.青史(せいし)とは?
大辞泉より引用
青史(せいし)・・・歴史、歴史書、記録。紙のない時代、青竹の札(ふだ)をあぶって文字を記したところから。
青竹(あおたけ)の札を竹簡(ちっかん)と言います。
竹簡の制作過程より引用
後漢の宦官(かんがん)だった蔡倫(さいりん、A.D.63年 – A.D.121年)が紙を発明するまで、木簡、竹簡に墨で文字を書いて、保存していました。秦の始皇帝の統一を描いたキングダムでは、始皇帝が木簡・竹簡の書物を読んでいる場面が登場します。
また、当時、秦の丞相(じょうしょう)・呂不韋(りょふい)が、有識者をあつめて編集した百科事典・呂氏春秋(りょししゅんじゅう)は、木簡・竹簡に書かれ、現在にも伝わっていて、2300年後の日本でも読むことができます。高校で漢文を学習するので、2300年後の私たちも読むことができます。
*呂不韋が呂氏春秋を完成させる直前の頃の場面
動画冒頭「呂不韋様(りょふいさま)!?」と呼びかけているのは、のちに始皇帝亡き後、秦国の丞相となるものの、宦官・趙高の裏切りで腰切りの刑になり殺される李斯(りし)。高校世界史の時、「韓非子(かんぴし)」と一緒に「法家思想の李斯」という漢字を書いて覚えた人も多いのでは?日本史と世界史の中の中国史は漢字の学習ですから。
2.青史に誇る大村の里
大村は、古代の条里制の跡が、大村市立郡(こおり)中学校周辺、三城付近に残っていることで、紙がなかった古代から、人の営みが続いていることが証明されています。
大村市観光ナビより。大村市に残る古代の条里制です。
たとえば、長崎市は、大村純忠公が1570年に町をつくるまで、十数軒の漁業の家しかなく、あとはジャングルだった場所だと言われています。長崎市に関しては、古代から長い間、歴史に登場していません。大村付近は、古代、現在の東彼杵郡と同じく、彼杵荘(そのぎのしょう)と呼ばれていました。大村市は市制がしかれるまで東彼杵郡大村町でした。
大村は、古代の景行天皇が「玖島」という地名を名付けたように、古くから続いている町なのです。肥前風土記、日本書紀で景行天皇のことを理解することができます。
肥前風土記(ひぜんふどき)西暦730年ころ
まとめ
神話時代のことは信用できないという人がいます。しかし、大和朝廷の統一、応神(おうじん)天皇から約1500年。はっきりした時点までさかのぼれば、1500年一つの血統で国が統一され、そういう国で、現存している国は日本だけしかなく、大村も最初から存在していることこそが、「青史に誇る大村の里」なのでしょう。
長崎市は古代の日本に全然つながっていないのですが、大村は日本の成立と共に、古代の歴史につながっているのです。
応神天皇から、神話ではなく実在が認められていると言われています。
続く