よそで活躍して、たたえられる人物を輩出するのが、大村高校(旧制大村中学校、五教館)出身者の特長でしょう。
長崎・佐世保・諫早の高校出身者と大村高校出身者は大きく違う事実があります。調べれば調べるほど、立証されていきます。
さて、大村ではあまり詳しく伝えられていない人物に長岡安平(ながおか やすへい)という人がいます。
仕事でも、旅行でも、予想していないのに、大村の先輩に出会うことがあります。今回は、人間ではなく、公園です。秋田市で、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)の長岡安平先輩が設計した公園と出会いましたので、伝えさせていただきます。
長岡安平は、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)出身。大先輩にあたります。学問も武道もあまり熱心ではなかった人だと聞きました。今でいえば、勉強もスポ-ツもあんまり好きじゃない人だったのでしょう。
地元の大村では、長岡安平といっても、長岡半太郎(東北大学工学部創設者、大阪大学初代総長、文化勲章受章者、貴族院議員)の兄弟か?などと、思っている人がいるかもしれません。
地元ではあまり知られていませんが、秋田市では、伝えられていました。秋田市が作成した公式観光ガイドにも、「秋田県の歴史散歩」という本にも、長岡安平先輩の名前が登場していました。
そこで、長岡安平の名前が登場している場所を見に行ってみました。
*秋田市の千秋公園は面積が広く、秋田市の中心部にある。美術館が公園内に二つあります。県立美術館と、地元の富豪が建てた美術館でした。
江戸時代、秋田を治めた佐竹藩の城があり、今は、千秋(せんしゅう)となっています。その場所を巨大な公園として、長岡安平先輩が設計したようです。
千秋(せんしゅう)公園を散歩してみると、大村公園を散歩しているような錯覚にとらわれてしまいます。いや、大村公園を拡大したような、錯覚でした。遠く離れた秋田の地で、よその土地ではない、親しみがわいてきました。
大村公園のように、旧・桝形(ますがた)亭や梅ヶ荘に該当する料亭が、秋田市の中心にある千秋(せんしゅう)公園に存在していましたし、大村公園のような池もありました。
*写真を撮っていたら、ハトが飛んできました。大村公園と同じく、秋田市の千秋公園は日本のさくら名所100選となっていました。
ところで、長岡安平先輩は、札幌の大通り公園、東京の日比谷公園など、名だたる公園のほとんどを設計した人物です。実際、縁もゆかりもない土地にでかけても、その土地で、かつて、大村の先輩が業績を残していることがわかると、どこかで大村の先輩が見守っているようで、不思議な気持になるものです。
付け加えると、秋田市は、秋田県の県庁所在地で、人口が33万。道路が広いので、まるで、福岡市のような100万都市のような風格があった。
面白いのは、秋田市内に、油田があることです。油田(ゆでん)、つまり、石油です。
中東にでかけなくても、日本で油田を普通に見物できました。バイクもクルマも石油がなければ動きません。わずかですが、日本にも石油が埋蔵されているのです。
秋田市の石油掘削(くっさく)現場
なお、秋田県の第七代知事(任期:明治22年(1889年)12月26日 ‐ 明治23年(1890年)3月25日)が、大村高校の前身・五教館出身の岩崎小二郎(いわさきこじろう)先輩でした。
早稲田大学に残る岩崎小二郎先輩の文書
大蔵官僚(現在の財務省官僚)だった岩崎小二郎先輩が、大蔵大臣(今の財務大臣)・大隈重信(おおくましげのぶ、早稲田大学創立者)にあてた手紙
原本全文は早稲田大学アーカイブにあります。
岩崎小二郎(いわさきこじろう)先輩の経歴の一部
明治4年1月(1871年)から黒田清隆開拓次官に随行しアメリカ合衆国、ヨーロッパを訪問。
同年7月から大蔵省留学生としてロンドンで学び、1874年7月に帰国。大蔵省七等出仕となり、1876年、大蔵少丞兼国債助に就任。1876年、大蔵少書記官となり、大蔵権大書記官兼銀行局長、大蔵省書記局御用掛などを歴任し、参事院議官補に就任し、法制局参事官となる。
1889年12月、秋田県知事に発令されたが、胃病のため辞退し赴任せず、1890年3月、元老院議官に任じられた。同年5月、滋賀県知事に転任。以後、大分県知事、福岡県知事を歴任。