【在校生向け】大村高校と諫早高校を比較する その2

大村高校と諫早高校を比較する – その1はこちらです。

はじめに

上記:1936年(昭和11年)、旧制一高(現、東京大学教養部)の合格(入学)者です。

戦前の旧制中学名

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東京府一中(戦前は東京都ではなく東京府)が日比谷高校、横濱一中が横浜希望ヶ丘高校、横濱二中が横浜翠嵐(すいらん)高校、横濱三中が横浜緑が丘高校、など。

そして、高知県の名門・土佐中の初代校長は大村の三根円次郎先輩(大村小学校→旧制大村中学3回卒→第五高校→東大文学部哲学科卒)。
*出典:土佐中学・高校ホームページ
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*三根円次郎先輩の土佐における業績は、土佐中学同窓会が本にまとめて出版しています。国立国会図書館で閲覧可能です。ホームページはこちらです。
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*補足しておきますが、現在の国立国会図書館の場所は、江戸時代から明治の初めまで、大村藩の藩邸(はんてい)の場所でした、1年ごとに参勤交代で江戸にのぼった大村藩・五教館の先輩が寝泊まりして仕事をしていた場所でした。

【在校生向け】大村高校と国会図書館、そして長崎県立図書館

ほかに、特筆すべきことは、福岡の修猷館(しゅうゆうかん)、熊本の済々黌(せいせいこう)からは合格者がなかったこと。福岡は旧制福岡高校、熊本は第五高校が身近にあったことが大きいと思います。長崎に旧制高校はありませんでした。

*帝国書院 旧制中学(5年制)用 地図帳 昭和13年/1938年より
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さらに、戦前は、台湾、中国大陸、朝鮮半島が日本領ですから、大連中(満州)、奉天中(満州)、龍山中(台湾)、京城中(朝鮮ソウル)、平壌中(朝鮮)、そして大邱中(朝鮮)など、海外領土の中学からも進学者があったことです。

九州から旧制一高(現、東大教養部)への進学者

一高には、九州からは8名が合格しています。長崎県からは、1名だけ合格しています。大村高校の前身である旧制大村中学の先輩です。

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かつて「旧制長崎中学はすごかった、大村なんか足元にもおよばなかった」と旧制長崎中学(戦後、廃校)の方々は、以前、話を聞くたびに大きな声で自慢されていましたが、その栄光の長崎中学からは、この年一高に合格者が出ていません。

諫早高校が卑屈な理由

諫早は長崎より、さらに卑屈(ひくつ)なものがあるように思います。その事例をあげます。

諫早高校の校章は、旧制一高にあこがれて、旧制一高の校章を借用したものになっています。まるごとパクリというやつです。しかし、旧制諫早中学からは、最後まで、旧制一高に一人も合格者が出ないまま終わっています。一高と諫早は、縁もゆかりもないのに、校章まるパクリという精神が何だか違うように思います。

*Wikipedia 諫早高校より引用:
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*ウィキの文字が小さいので該当部分を拡大:諫早高校の校章に関して
なお、柏の校章の由来は旧制第一高等学校の校章を借用し、その生徒の様に知的であってほしいという願いがこめられていると言われている。

*旧制一高同窓会HPより:一高の校章
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旧制諫早中学は、校章を旧制一高からパクリましたが、一高には一人も進学者を出さなかったため、旧制諫早中学の方々は、一高のノブレス・オブリージュ(noblesse oblige:フランス語)の精神が理解できなかったと思われます。諫早が校章をきめた経緯(いきさつ)からも明らかになっています。戦前の旧制高校は知性だけではなかったのですが。

あこがれて一高から校章をパクったものの、最後まで一高に進学者ゼロ。そしてその一高の校章を、現在まで使い続ける諫早高校の精神、大村とはまったく違います。

大村高校の校章は、旧制大村中学設立時、アメリカ・ハーバード大学(Harvard University : ノーベル賞受賞者数で世界一の大学)出身の大村純雄(おおむらすみお)伯爵(はくしゃく)の大村家が中心となり創設したという意味で、江戸時代からつづく五教館からの継承も含め、由緒正しい大村家家紋の一つが校章となっています。

ハーバード大学出身 大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

ハーバード大学出身
大村高校の前身・大村中学を開校した大村純雄(おおむら すみお)伯爵

開校時、長崎県がいやがらせしたので、大村は、私立として開校し、まったく長崎県の援助を受けず、自力でスタートしました。

当初は五教館(ごこうかん)の先輩が、開校した旧制大村中学校に、毎月、給与から寄付金を送っていました。

具体的には、数年にわたり毎月寄付金を大村に送っていた五教館出身の先輩は、一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう、司法省法律学校一期生として裁判官、明治大学教授、関西大学第三代学長)先輩。
*一瀬勇三郎先輩(出典:明治大学ホームページ
前列の中央
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【在校生向け】大村高校と日本の法律、そして一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう)先輩

そして大島誠治(おおしませいじ、金沢大学の前身・第四高校校長、東京フランス学校[現、法政大学]校長)先輩。

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大村高校と金沢大学 2

それから、長岡安平(ながおか やすへい)先輩など十数名が、毎月、大村中学に送金しました。

*長岡安平先輩は、札幌・大通公園、東京・日比谷公園など、全国の有名な公園の設計者です。

**札幌でたたえられる長岡安平先輩 その1
大村出身者と、長崎・佐世保・諫早出身者の違い

【在校生向け】北海道・札幌で大村の先輩が設計した公園3つ、そして大村の先輩の銅像

**その2
大通公園100周年で長岡先輩をたたえる札幌市(人口191万人の大都市です:比較>福岡市は140万人)

【在校生向け】大村高校と北海道・札幌市

全国的な業績をあげても、長崎県は大村出身者をたたえません。そういう県です。長崎県はしばしば大村にいやがらせはしてきましたが、長崎市民以外はたたえない長崎県のように思います。

実際、大村の学校設備は、開校時、さんざん長崎県がいやがらせしたので、すべて長崎県にたよらず先輩の方々が毎月送金した寄付金で購入した伝統があります。

その伝統が受け継がれ、現在の大村高校グラウンドは卒業生の寄付金で購入されました。グラウンド購入時も、長崎県が大村高校にさんざんいやがらせしました。長崎県がさんざん大村にいやがらせをする伝統、現在も続いているのでしょうか?

【在校生向け】大村高校のグラウンドは、長崎県に購入してもらったものではないんです

さて、大村は、一高進学者のみならず、一高校長、教員とも、つながりがありました。また、一高に進学した先輩が、後輩のために一高の文化を大村に持ち帰り、大村高校応援歌として、現在も残っています。

また、一高だけではなく、三高(京都大学教養部)に進学した先輩も、夏休みに大村に帰省したとき、三高応援歌を持ち帰り旧制大村中学の後輩に伝授した記録が残っています。

大村と一高校長のつながり

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一高校長だった新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、大村の南鷹次郎(みなみたかじろう)先輩と、北海道大学の前身である札幌農学校二期生で、同期でした。札幌農学校の卒業生はわずか10名。大村の南先輩は、その後北大の総長に就任されました。

北海道大学初代農学部長から北海道大学第二代総長となった南鷹次郎(みなみ たかじろう)先輩

北海道大学初代農学部長から北海道大学第二代総長となった南鷹次郎(みなみ たかじろう)先輩

以下、理科系は、九州大学より、北海道大学か東北大学を目指そう!より

南先輩と札幌農学校の同期には、内村鑑三(うちむらかんぞう、群馬県より上京)、町村金弥(まちむらきんや、福井県より上京)、そして新渡戸稲造(にとべいなぞう、青森県より上京)がいました。

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一高で事件をおこした内村鑑三(うちむらかんぞう)

南先輩と札幌農学校で同期だった内村鑑三は、一高の教員に採用されますが、問題をおこし、退職においこまれます。事件名・内村鑑三不敬事件

札幌農学校では、キリスト教が必修であったため、学生がキリスト教に改宗しました。新渡戸稲造(にとべいなぞう)も内村鑑三もキリスト教徒になりました。大村藩の領域で生まれ育った南先輩は、キリスト教に改宗はしませんでした。詳細は、北海道大学から出版された「南鷹次郎伝」に書かれています。

南鷹次郎伝 北海道大学 南鷹次郎先生伝記編纂委員会 編

南鷹次郎伝
北海道大学 南鷹次郎先生伝記編纂委員会 編

まじめな内村鑑三は、魂までキリスト教にとらわれてしまい、問題をおこしたように思います。

大村では現実の一高、諫早からは手が届かない理想で夢にすぎなかった一高

大村は、旧制一高に明治17年(1884年)の第一回入学者から(大村の開校から)2名の合格者でていますから、大村ではすぐそこにある日常の現実が、諫早は遠く手が届かない夢物語であったことがうかがえます。

エピソードとしては、大村高校応援歌「三艇の賦(さんていのふ)」。
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大村高校応援歌「三艇の賦(さんていのふ)」は、旧制一高に合格した先輩が、旧制一高応援歌を夏休みに持ち帰り、後輩である旧制大村中学の生徒に伝授したと伝えられ、旧制一高応援歌「ああ玉杯(ぎょくはい)に花うけて 」の替え歌(少し節回[ふしまわ]しが違うものの)になっているということからもうかがえます。

*旧制一高(東大教養部)の「ああ玉杯(ぎょくはい)に花受けて」の動画

これにより、一高に進学された先輩の方々は、楽譜なしで、口述により、大村の後輩に伝えたものだと考えられます。

【在校生向け】大村高校応援歌と東京大学、そして京都大学

この当時は、音楽著作権のルールは日本にはありませんでした。また、現在のルールで日本の音楽著作権は50年(たとえばメキシコは100年など、国によって違います)です。

したがって、50年以上の年月がたっているので、大村高校や他の伝統校で、旧制一高(現、東大)歌や、旧制三高(現、京大)歌を利用しても問題はないと思います。音楽著作権のある旧制一高、旧制三高が消滅していますし、作詞・作曲されて50年以上たっていますし、関係したすべての方が、すでに他界されていますので。

また、むしろ、旧制高校文化をそのまま残しているという歴史の連続・継続性のほうが、賞賛に値するのではないかと思います。

諫早からは名をなす人が出ない伝統

現在もそうで、諫早からは、開校から100年(大正11年/1922年開校)近い時間が流れているのに、いまだに財閥系企業や大手企業のトップになった人や国立大学の学長・副学長になった人が、一人もでていません。

大村は、現在ならば、この五月から三菱東京UFJ銀行の副頭取が大村の先輩ですし、少し前なら、日本経済新聞の社長が大村の先輩でした。諫早からは、はるかに遠い夢なのかもしれません。

三菱東京UFJ銀行 副頭取 荒木先輩の経歴

大村市立大村小学校→大村市立玖島中学校→長崎県立大村高校普通科→東京大学法学部→三菱銀行入行
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参考:銀行の序列

1.頭取(とうどり=トップ、社長)
2.副頭取(ふくとうどり)
3.専務(せんむ)
4.常務(じょうむ)

**自民党 宏池会(こうちかい)に講師として招かれた荒木先輩(常務時代)
出典:岸田外務大臣のホームページより
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**出典:三菱東京UFJ銀行英語版HPより(常務時代)
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**出典:産経新聞関西版より 写真右側(常務時代)
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荒木先輩と同期だったオーストラリアからの交換留学生アンダーソンさん(高2の九月から高3の七月まで大村高校に留学)、野岳湖の歓迎遠足時撮影されたもの。大村高校1000日1000枚より引用
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日本経済新聞 社長→会長だった杉田先輩の経歴

大村市立三城小学校→長崎大学付属中学校→長崎県立大村高校普通科→横浜国立大学経済学部→日本経済新聞社入社
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大村高校創立120周年(平成16年/2004年)時、大村高校で講演 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩 (日本経済新聞社社長、当時)

創立120周年(平成16年/2004年)時、大村高校で講演 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩 (日本経済新聞社社長、当時)

大村高校で講演 杉田亮毅(すぎた りょうき)先輩

高校とは、勉強だけの場ではない

実は、高校は勉強だけするところではなく、先輩の影響も重要なのです。先輩がここまで行けるなら、後輩もがんばればあそこまで行ける、という道しるべ(マイルストーン)として、大きな影響を受けるからです。数々の事例から、大村高校と違い、精神的な良い影響を受けられないのが諫早高校だと言えるのではないでしょうか?

実際、諫早は、現在もこの精神的な卑屈さのようなものが続いているように見えます。事例をあげます。

諫早で授業をまったく受けていないノーベル賞の下村博士の銅像が、諫早高校の敷地内に建てられているそうです。

下村博士は、大阪の住吉中学に入学し、旧制住吉中や転校した旧制佐世保中では授業を受けていますが、さらに転校した旧制諫早中では、卒業証書を受け取りに1日だけ通ったのみです。

事実がバレたら、さらに諫早高校は信頼がなくなりそうですが、そこまで考えが及ばないのでしょうか。

精神面で、諫早高校出身者が卑屈になるべくしてなることを、諫早高校自身がつくりだしているように見えますが、どうでしょうか。

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それに諫早高校は、諫早高校出身ではない朝日新聞の専務を学校に招き、諫早高校の生徒全員に講演を聞かせたことがある学校です(諫早高校自身がホームページで紹介していました)。諫早の先輩ではない朝日新聞・専務を学校に招き、講演会を開催した意味、大きいと思います。

その後の先輩

さて、1936年(昭和11年)に、旧制一高に合格した大村の先輩はその後どうなったのか、気になりませんか?

旧制一高から、その後、東大工学部に進学し、日本製鉄株式会社に入社。それから、海軍に技術将校として入り、海軍兵学校の教授となり、終戦を迎えられました。

現在風に書き直すと、東大工学部から、新日本製鐵(現、新日鐵住金[しんにってつ すみきん])に入社。それから、海上自衛隊に技術者として入り、防衛大学校教授となったという感じです。

蛇足ですが、大村高校からは、防衛大学校・副校長(後に名誉教授)も輩出しています。
中溝先輩、防衛省において:平成18年(2006年)春の叙勲(じょくん=勲章を天皇陛下から授与されること)における記念写真 

当時の帝国海軍の先輩

当時、帝国海軍・技術将校ナンバー2は、大村の橋口先輩でした。帝国海軍の名戦闘機だった紫電改(しでんかい)の開発責任者でした。橋口先輩の経歴は、
竹松小学校→旧制大村中学校→国立第五高等学校(熊本大学教養部)→東京大学工学部→帝国海軍、でした。

*橋口先輩と紫電改(しでんかい)に関して:

【在校生向け】大村高校と戦闘機・紫電改(しでんかい)

*橋口先輩は伝統の大村高校マラソン大会第一回優勝者です(第一回から第三回まで連続して優勝)。勉強も運動もできた両道不岐(りょうどうふき)の先輩でした。

【在校生向け】今年度、大村高校マラソン大会は百周年を迎えます

*大村高校の両道不岐(りょうどうふき)って何ですか?

志(こころざし)だけではハンパもの だから両道不岐

*産経新聞による紫電改の解説:紫電改(しでんかい)最強伝説

おわりに

最後に付け加えると、この年(昭和11年/1936年)大村から旧制国立第一高等学校(東大教養部)に合格された先輩のご親戚の方は、現在も大村市にお住まいのようです。

一高に一番で合格した先輩

もうひとつ付け加えると、大村からは、旧制一高に一番で合格した人がでて、当時、長崎県内で話題になったようです。

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旧制一高に一番で合格し、世界銀行副総裁になり、大村高校100周年(昭和59年/1984年)で生徒に向けて講演された服部先輩。

日本人初の世界銀行副総裁となった服部正也(はっとり まさや)先輩 1

諫早では夢のまた夢、大村では身近な現実。わかっていただけましたか?

*大村高校と諫早高校の比較 その1:

【在校生向け】大村高校と諫早高校を比較する その1

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