昭和59年/1984年のインタビュー記事です。その1↑
甲組というのは、甲乙丙丁[こう おつ へい てい](ABCD)の順のA組が甲組。橋口先輩の時代は、1学年150人。甲(こう)組、乙(おつ)組、丙(へい)組の成績順のクラス編成でした。
その2↓

国立第五高等学校、旧制大村中学から22名受験し合格したのは2名。最初は、橋口先輩は、推薦で合格とされていたが、旧制大村中学から推薦で第五高校に進学した人が、落第してしまい、成績が不良だったために、「大村の学校推薦はあてにできない」として橋口先輩の推薦入学が取り消され、橋口先輩は一般入試で合格したエピソード。
当時から、卒業後、東京に(勉強に、遊びに)出るのが、大村の生徒の習慣のようでした。長崎や、福岡や、大阪ではなく、東京でした。当時は、飛行機ではなく、新幹線もないので、列車で東京に出ました。昭和の時代にブルートレインと呼ばれていた、夜行寝台でした。現在の大村→早岐(はいき)→武雄→博多→広島→大阪→京都→名古屋→東京の列車の旅でした。始発は長崎で、大村駅を夜21時頃発で、翌日の午前中に、東京駅に着きました。一晩で東京に行けました。
昭和期の長崎本線(旧線)大村駅には、東京と長崎を結ぶブルートレイン「さくら」が停車していました。1960〜70年代の全盛期には、夜間〜早朝の時間帯に上り・下り各1本が停車し、東京への直通便として利用されていました。
下り(長崎行): 早朝に大村駅に到着
上り(東京行): 夜21時台〜22時頃に大村駅を出発
写真:ウラベ研究所様より
その3↓

↑上記、橋口先輩と田崎先輩が話された中に出てくる「胤」とは?
胤、読み方=タネ
角川新字源(漢和辞典)より
大村の精神は江戸時代から自立です。大村の精神は体力と自立。勉強だけではだめなのです。大村からでるエリートは、運動も勉強もできる人なのです。
大村は自立していて助かったのは、江戸時代の大飢饉(ききん)です。全国で、大村藩と薩摩藩だけが、餓死者がゼロでした。
諫早や佐賀では餓死者が多数出ました(歴史的事実)。
大村は、深澤義太夫(ふかざわぎだゆう)が、漁業でもうけたお金を、投資して、いざという時のために作っておいた農業用水の湖・野岳湖、そして薩摩藩と親しくしておいたので芋があり、自立していたので、餓死者が出ませんでした。
さて、上記の橋口というのは、橋口先輩。
経歴は、竹松小学校(今も)
→大村高校の前身・旧制大村中学校
→熊本大学の前身・旧制第五高等学校
→東京大学工学部船舶工学科
→志願して、帝国海軍
→技術部門なので、川西飛行機(現在の新明和工業)に出向し、紫電改、二式大艇の開発責任者
→敗戦前は、帝国海軍。技術将校でNo.2
*橋口先輩
田崎というのは、田崎真珠の創業者、田崎先輩。
経歴は、松原小学校(今も)
→大村高校の前身・旧制大村中学校(5年制だが成績が良いので4年で卒業し進学)
→防衛大学校の前身・海軍兵学校(在学中に敗戦)
→敗戦で帝国海軍が解体されたために、東京大学を受験しようとしたが、軍出身者は、アメリカ占領軍(GHQ)により帝国大学への進学を禁止された。
→しかたがないので、長崎大学経済学部を受験し進学
→田崎真珠創業
*田崎先輩
面白いのは、どこを読んでも長崎県は良かったという話が出てこないことです。
大村と長崎とは違うのです。
長崎市の精神に染まらないようにしましよう。
長崎市は、長期的展望などなく、目先のことだけの商人の精神が大きいのです。天領(徳川領)ですから、自立の考えはないのです。このあたりは、大阪市と長崎市はよく似てるように思います。大村市は違いますから、長崎県が押しつける長崎市の精神をまともに受けないようにしましょう。




