【在校生向け】幕末の新撰組・近藤勇(こんどういさみ)と大村高校

星をつかみそこねる男

新撰組(しんせんぐみ)とは、幕末、京都で反幕府勢力を取り締まり、戊辰戦争で幕府軍として戦った組織です。最大時、構成員は約200名。トップは近藤勇(こんどういさみ)。

*新撰組 局長 近藤勇

その近藤勇(こんどういさみ)は、江戸(現在の東京)の剣の天然理心流(てんねんりしんりゅう)道場の四代目。当時、江戸には300余りの道場がありましたが、天然理心流はマイナーでした。

メジャーな3大流派は、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)神道無念流(しんとうむねんりゅう)でした。

その当時、神道無念流のトップが、大村高校の前身・五教館(ごうこうかん)出身で大村藩士の渡邉昇(わたなべのぼり)先輩でした。ご実家は、大村の玖島・岩舟(いわふね)でした。

*渡邉昇先輩

天然理心流(てんねんりしんりゅう)のトップ・近藤勇(こんどういさみ)と神道無念流(しんとむねんりゅう)トップ・渡邉昇(わたなべのぼり)が江戸で出会った場面が、水木しげる(代表作:ゲゲゲの鬼太郎)の「近藤勇 星をつかみそこねる男」に登場していたので報告しておきます。

なぜ、大村藩が長州藩と早い時期に同盟して、その後、新政府軍のメンバーになったのか。その因果は、剣術にあります。

大村藩は、当初、幕府の柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)という剣の流派を取り入れ、幕府から剣術の先生を迎え入れ、稽古にはげみました。そのままなら、大村藩は明治維新に乗り遅れたことでしょう。

しかし、ある時期、大村藩主が、突然、剣術の流派を神道無念流に切り替えました。

そう、神道無念流派、長州藩が取り入れていた流派だったのです。大村の渡邉昇(わたなべのぼり)先輩の先代の神道無念流トップは、長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)でした。


大村藩が新政府軍のメンバーになったのは、参勤交代で江戸に上った大村藩士が、道場で日頃から長州藩士と接触していたからだと考えられます。

渡邉昇先輩は、明治維新の後も、大村に帰省するたびに、大村高校の前身である旧制大村中学で剣道の試合を披露しています。その後、伝統を受け継ぐものとして、現在も続く大村の剣道道場である微神堂(びしんどう)があります。

wikipedia 神道無念流の系譜より引用

大村藩伝
斎藤歓之助(斎藤弥九郎の三男)が嘉永4年(1851年)に大村藩に仕え、嘉永7年(1854年)に練兵館塾頭だった荘勇雄とともに江戸詰から大村に移ったことにより、一刀流、新陰流の稽古が廃止され、神道無念流に統一された。

藩主大村純熈は歓之助の屋敷内に微神堂という道場を与え、微神堂から渡辺昇柴江運八郎を輩出した。

渡辺昇は江戸へ出て練兵館塾頭を務め、明治維新後は大日本武徳会の発起メンバーとなり、近代剣道界の発展に努めた。

柴江運八郎は大阪府警察部に勤務後、大村に帰郷し微神堂で剣術を指導した。柴江の後は、寺井市太郎 - 寺井知高と伝えられ、寺井知高は東京で中山博道にも師事し、現在、久保勲・豊田喜代子(当代)兄妹の練兵館久保道場(大村市)にて伝承されている。

この系統の立居合は、他の系統よりも動作が簡略化されている。

系譜
福井嘉平―戸賀崎暉芳―岡田吉利―斎藤弥九郎―斎藤歓之助―柴江運八郎―寺井市太郎―寺井知高―豊田喜代子

なお、渡邉昇先輩は、その後、国立第四高等学校(現在の金沢大学)に招かれ指導しています。第四高等学校の剣道場は、現在も愛知県犬山市の明治村に移築し保存されていて、渡邉昇り先輩の揮毫(きごう)も保存されています。行ってきました。

大村高校と金沢大学 2

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渡邉昇は大変きびしかったようです。その後、明治学院大学創設メンバーとなる熊野雄七(くまのゆうしち)に謹慎(きんしん)を命じたりしています。

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