飛鳥時代から奈良時代、長崎県はどうだったんだろう?大村市はどうだったのだろう?
飛鳥時代にできた和同開珎(わどうかいちん)というお金はどうだったんだろう?
飛鳥時代、長崎市の領域には、人の営みは、何もなかったのです。なぜなら長崎市の領域には、人が住んでいなかったから。
長崎市の領域に町ができ、人が移り住みはじめるのは、飛鳥時代から約800年後。人が住み、町ができるのは、キリシタン大名・大村純忠が、長崎港を開港し、大村が長崎を切り開き大規模な土木工事を施し町をつくってからなのです。長崎県と県教育委員会は、本当の歴史を県民に教えていないようです。
また、佐世保市の領域は、町ができ、人が増え始めるのは、約1200年後。それまで佐世保の地は、町がないジャングルだったのです。
中世でさえ、長崎・佐世保・諫早・島原に町がありませんでした。大村だけです。長崎県は本当の歴史を教えてくれないので、自分で学んでおきましょう。
大村市の領域はどうだったのでしょうか?
長崎や佐世保がジャングルで、人がいなかった飛鳥時代、すでに、大村では人が暮らしていて、当時の都の指示で、条里制(じょうりせい)が敷かれていました。
班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)、三世一身(さんぜいっしん)の法、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)など、次々と大和朝廷が打ち出す国つくりの法が、現在の大村市の領域に及んでいました。
大村市観光ナビより。大村市に残る古代の条里制です。
藤原京(現在の奈良県橿原[かしはら]市)から平城京(現在の奈良市)に遷都のころ、武蔵(むさし)の国(現在の、東京・埼玉・神奈川県の一部)秩父(ちちぶ)で、銅(あかがね)が発見され、それを記念して、年号を和銅とあらため、和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が鋳造(ちゅうぞう)されました。和同開珎は、日本国内に貨幣として流通した最古のものです。
和同開珎といっても、なんだか、藤原京、平城京のある奈良県近郊で、銅がみつかり、その銅で鋳造されたものだと、つい最近まで思っておりました。中学でも、高校でも、学校の先生は、そこまで詳しく知っている人はいませんでした。
また、私も、高校時代の理科は、1年で生物、2年で物理・化学を選択し、地学は選択していませんでした。高校1年の地理で習ったのは、世界の銅山(チュキカマタ、ビンガム、エルテニエンテ)だけで、日本の銅産出地は学んでいませんでした。
さて、和同開珎の銅は、埼玉県秩父市で産出されたものだったようです。産出されただけではなく、銅を、秩父から、大和朝廷の奈良まで知らせ、奈良まで献上のために運搬したことに驚きます。西暦708年ですよ。航空機も鉄道も自動車もない。道がない時代です。500キロ程度離れた場所です。
現在、露天掘りの鉱脈はつきていますが、産出場所は、飛鳥時代そのままに残っています。この場所は、写真のモニュメントと標識がなければ、時間が止まったままで、飛鳥時代のままのような場所でした。和同開珎は、別の用事で、秩父に出かけ、偶然、道路標識を見て、探索してみたのです。
行って見た秩父の感想を書きます。
秩父市は人口7万、秩父郡で4万。埼玉県の秩父と呼ばれる領域は人口11万程度。
秩父(ちちぶ)は、京都に似た祭りがあり、秩父夜祭りと言います。町全体は、米軍の爆撃を受けなかったので、京都のように古い建物が残っています。商店街にシャッター通りがなく、独自の食文化があり、お寺が多く、水が良く、温泉が5つもあります。江戸時代から、四国のお遍路さんのような、秩父巡礼のお寺があり、現在も続いています。
昔、いのしし肉の臭みを抜いて食べるため、味噌に漬け込む習慣が生まれ、その匠の技が収斂され、現在は、おいしい豚丼の店となっています。この店は、平日も開店前から並ばないといけないのです。しかも、限定なので売り切れた時点で閉店となる人気のお店。
豚丼は、北海道がさかんに宣伝していますが、北海道の豚丼はタレのみ。秩父は、味噌。しかも、新開地の北海道と違い、培われ収斂(しゅうれん)され た伝統があるようです。お時間がありましたら、興味がある方は、首都圏の方は、行ってみてはいかがでしょうか?秩父名物 豚丼の野坂
ほかに、わらじカツ丼という、大きなカツ丼があります。金粉が乗っていました。
江戸時代、江戸の観光客、巡礼者を迎え入れていた秩父。行って見る価値はあると思います。