*↑写真:民法 総則物権 内田貴 著
まず基礎知識
六法とは?
民(みん)法、
刑(けい)法、
憲法、
商法(会社法)、
民事訴訟(みんじそしょう)法、
刑事訴訟(けいじそしょう)法、
のことです(順番は決まってません)。
はじめに
高校の先生は、それぞれの科目がその後(高校を出た後)、どういうつながりになって、どのように役立つのかを知らない人が多いので、今のうちから知っておいて、学校から外にでたことがなく、たいしたことがない高校の先生をどんどん超えていきましょう。
その後につながること
刑法 第199条
人を殺した者は、死刑又は無期(むき)若(も)しくは5年以上の懲役(ちょうえき)に処(しょ)する。
さて、法律は、単に、条文の暗記だけでは理解できないからです。上記の刑法の条文を暗記するだけではだめで、なぜ、このような条文ができたのか、背景の知識が必要になります。
そして、背景の知識、つまり、法律が、いつ、どこで、どうやってできたか、理解するには、歴史の知識が必要だからです。歴史を理解するには地理の知識が必要です。
高校時代には、地理、歴史(日本史、世界史)ともに学習したことが前提となって、大学の講義がすすみます。理科系で、数学がベースにないと、理学部、工学部ではついていけないのと同じことなのです。
2分45秒より:文字を使って学問する文系と違い、理系は数学で決まる、数式で学問するのです。北海道大学による説明
結論は、高校レベルだと、地理歴史の知識がないので(学習途中なので)、法律ができた背景と趣旨を理解できないのです。つまり、法律だけを授業で教えても、高校レベルでは生徒が理解するだけの知識が身についていないため、教えることができないのだと思います。
実例として以下の憲法テキスト
以下の憲法テキストの文章中(前から四行目)に1791年フランス憲法というのがあります。
「あぁ、1789年がフランス革命だから、その2年後、アンシャン・レジュームのあとにできた憲法なんだ」というのを(高校時代に習得し)知っていて、パッとわかることが前提に書かれています。
マグナカルタ、権利の章典、フランス、プロイセン(プロシア=今のドイツ)、福沢諭吉の位置づけなど、歴史的な意味がわからなければ、最初から、憲法がわからなくなるようです(歴史が好きな人にはたまらなく面白いですが)。
憲法と大村高校
付け加えると、後ろから四行目に福沢諭吉という名前が出た後、元老院(日本の)のことが書かれていますが、このとき、大村高校の前身である五教館(ごこうかん)の先輩2名:長与専斎(ながよせんさい)と渡辺清(わたなべきよし)が、元老院のメンバーでした。
長与専斎と大阪大学の前身・適塾
長与専斎は大村高校の前身・五教館(ごこうかん)を出た後、大坂(当時は大阪の阪は、坂が用いられた)の適塾(てきじゅく)に進学しました。適塾は現在も大阪大学によって保存されています。
適塾とは?
実は、福沢諭吉と長与専斎は大阪の適塾(てきじゅく)出身です。二人とも適塾で塾頭でした。福沢諭吉が長与専斎の先輩です。
適塾と大村高校の日本史授業
適塾時代のことは、福沢諭吉の福翁自伝(ふくおうじでん)に書かれています。
実は、私の大村高校時代、「必修クラブ」という授業が週に1時間実施され、たくさん提案された学校側のプランから、わたくしは日本史を選択しました。3学年ともに1年間(3年は3学期制の2学期)まで、選択した同じ授業を受けるものでした。
そのときのテキストが岩波文庫「福翁自伝」でした。
授業内容は、大学の「購読演習」のようなもので、生徒が1節(パラグラフ)を音読。パラグラフごとに、先生(九州大学出身の日本史の先生)が解説するというものでした。
この授業を選択した生徒は3学年で10人以下で、7〜8人でした。少人数だったので、この授業形態は大学の「ゼミ」の「購読演習」でした。高校の時はこのような授業があることを、当然ですが、知りませんでした。
45分週1回授業の1年間(大学で言えば2単位)で福翁自伝を1冊終了しました。その後の人生で、この授業を選択したことは大きく役立ちました。
適塾、大阪大学、そして大村高校のつながり
そして、江戸時代の適塾が発展して、大阪大学になります。
大阪大学の初代総長が大村の、我々の先輩にあたる長岡半太郎。そして二代総長も我々の先輩になる、旧制大村中学一期生の楠本長三郎です。大村高校は、さまざまなつながりがあります。
プロイセンと大村
なお、明治の初めにプロイセン(プロシア、今のドイツ)からやってきた人で、大村、島原地区の記録を残した人がいます。九州大学が翻訳して出版しました。
国会図書館と大村
それから、江戸時代、参勤交代でのぼった大村藩の屋敷が、明治時代のドイツ大使館となり、現在、国立国会図書館となっています。
長崎市、諫早市、佐世保市は、江戸時代の江戸、明治時代から戦前の東京に関係するものが何もありません。が、大村は関係するものがあり、今も続いているものがあります(大阪にもあります)。長崎市、諫早市、佐世保市と違い、大村と東京は縁(えん)が深いです。
先を知り、今が先にどうつながるのか知っておこう
高校の先生が進路指導を間違えて、理科系で、社会が嫌いで数学が好きな生徒に法学部進学を勧め、合格はしたものの、入学後、歴史嫌いだったため、ついていけなくなる例があるようです。
法学は、導入は、日本史、世界史の知識がないと理解できないこと、歴史を理解するには地理の知識が必要なので、高校時代には、英語・数学だけではなく、地理・歴史をしっかり勉強しておいたほうがいいです。
経済学部、商学部は数学がある程度できることが前提です。法学は、歴史の知識があることが前提で、講義がすすみます。
おわりに
在校生で文科系志望の人は、経済学部・商学部志望の人は数学を、法学部志望の人は地理・日本史・世界史をしっかり勉強しておいたほうがよいでしょう。
現在の日本の法律はボワソナードによる
日本の民法典を最初に編纂(へんさん)した人はフランス人のボワソナードです。
ボワソナードに直接教わった大村の先輩
卒業生も在校生も知っておいたほうが良いでしょう。明治大学がホームページで紹介しています。明治大学教授が、大村に来訪され、調査・発表されています。ボアソナードから直に習得し明治大学で講義した先輩のお墓は、JR大村駅そばの長安寺(浄土真宗)にあります。
明治大学ホームページより:一瀬勇三郎(いちのせゆうざぶろう)先輩
*盲判=めくらばん=内容を確認しないでハンコを捺(お)して承認すること
長崎県庁がおこなった大村に対するイヤがらせ
ここには書かれていませんが、旧制大村中学校の開校時(明治17年/1884年)、長崎県庁が開校妨害し大村に嫌がらせしました。長崎県庁は資金的な援助もしませんでした。そこで、長崎県庁の嫌がらせをはねのけ、私立大村中学として開校。
大村の先輩方は、給料を私立大村中学の後輩のために、毎月送金しました。一瀬先輩も、毎月大村に送金しました。(大村高校百年史による)。
明治17年/1884年開校時大村の先輩方の服装
ネルシャツの上に着物、ズボンの代わりに袴(はかま)
1884年 明治17年 旧制大村中学にて 入学時の写真
朝永三十郎先輩(後の京都大学教授。息子がノーベル物理学賞:朝永振一郎博士)、他に大阪大学総長となる楠本長三郎先輩も同期です。
長崎県庁の嫌がらせに負けて開校できなかったら、日本の科学と文化に貢献した大村の先輩がつぶされていたのです。
今も、昔も、大村のことを理解しないで、何でも長崎が一番というウソを押し付け、嫌がらせをしているのが長崎県庁と県庁職員ですよね?
パンデクテンとは?
日本の民法はローマ帝国・ローマ法のパンデクテン体系を用いて起草してあります。
ローマ帝国は、遠い昔で今の日本と何も関係なさそうですが、現在の日本において、法律で体系のほかにローマ帝国時代にできた考えを用いている部分があります。
ローマ帝国の遺産に歴史上、日本人として初めて訪問
そして、ローマ帝国の遺産に日本人として最初に訪問したのが、大村の天正の少年使節団です。
それから、ボアソナードの弟子となりローマ法の考えを明治大学で講義したのが、大村の一ノ瀬先輩です。
長崎県の高校の先生は、おそらくたいしたことがなく、興味関心がない人が多いと考えられますが、少しだけローマ帝国につながりを持つのは、長崎県内では大村高校だけです。