【在校生向け】なぜ日本に3度目のモンゴル侵略(元寇)がなかったのか?そして和弓とアーチェリーの違い

*写真は福岡市西区に今も残る防塁(ぼうるい)近くにある「防塁前バス停」。防塁とは、モンゴル軍が襲来するのに備えて鎌倉幕府が築いたものです。この時代は、大砲や鉄砲はありません。弓と刀が主な武器でした。

モンゴル軍の攻撃を防ぐために鎌倉幕府が築いた防塁(ぼうるい):福岡市西区
福岡市の文化財より

さて、ゆとり教育がはじまり、現在も続いているのは、日本史が必修ではなくなったこと。そのせいで、日本人なのに日本の歴史を知らない人があふれています。

英語ができるようになって、ビジネスで外国人との人付きあいがはじまると、日本のことをたくさん聞かれるのですが、歴史を知らないと、何も語れないと思います。国歌・君が代、国旗・日の丸を否定する反日勢力(立憲民主党、社民党、共産党+れいわ、日教組、全教)の教員たちは
「駅はどこですか?」
程度の英語ですむと考えているのでしょうか。

先祖代々の日本人の歴史や日本の神話が教養として(普通のこととして)身についていなければ、無国籍の変な人で終了しますから、各自、身につけていたほうが良いと思います。

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しつこい元(モンゴル帝国)は日本を征服するために、大軍を2回派遣しました。3回目も予定していました。

*文永の役:対馬の戦い
大軍勢と戦った対馬

*壱岐の戦い:モンゴル+朝鮮(高麗)の連合軍は、対馬のあと壱岐に攻めてきました
山がある対馬と違って、平地の壱岐は逃げる場所がありませんでした。
壱岐もわずかの軍勢で、モンゴル+朝鮮(高麗)の大軍と戦いました。

モンゴル(蒙古)軍の日本侵略 第一次日本遠征
モンゴル軍に「日本を滅ぼしてくれ」と促(うなが)したのは、やはり朝鮮国王でした。朝鮮人は腹黒いのです。信用してはいけない民族でしょう。

*30秒より モンゴルに仕(つか)えた高麗(朝鮮)の官吏がクビライに日本征服を提案しています。

上記↑動画で解説されているように、日本の和弓は射程距離が長く、貫通力があるため、モンゴル軍の短い射程距離の弓では日本軍に届きませんでした。モンゴル軍の弓は射程距離が短いけれど、大量に連射できるのです。このモンゴル戦法は、大陸や中央アジアの平原では威力がありましたが、日本軍には通用しませんでした。

*モンゴル軍の日本遠征前に、朝鮮の高麗王朝が、モンゴルに降伏しました。そしてクビライ汗と兄弟の契(ちぎ)りを交わした高麗王が、モンゴルのクビライ汗(汗というのはモンゴル王の名称)に日本征服を提案しています。
34分40秒より 

モンゴル軍のモンゴル戦法は機関銃(マシンガン)のように、大量に弓を連射するものでしたが、射程が短いのです。鎌倉武士の日本軍は、狙撃(スナイパー)するように、一射ごとに、ていねいに、遠方より狙いを定めて放つものでした。

モンゴルの弓:日本の弓に比べ小型、矢も短い。矢尻(矢の先端)も小型軽量。

また、モンゴル軍の甲冑(かっちゅう=よろい)の装甲は、馬に乗って遠距離を移動するため、軽装備で、革だけで軽く薄く作られていました。したがって、モンゴル軍は、重装備の甲冑を撃ち抜くためにつくられた日本の和弓を防ぐことができませんでした。

和弓の実力

藩校時代から伝統ある学校(大村高校など)はたいてい和弓の弓道部があります。伝統がない学校(大村の分校として開校した諫早高校など)はアーチェリー部で洋弓です。

和弓は鎌倉時代(12世紀)から続く伝統あるものです。侵略してきた元(モンゴル)を押し返したのは鎌倉武士の実力と和弓の威力です。

和弓の実力に関しての解説
〜動画で和弓と洋弓(アーチェリー)に関して、違いを知っておこう〜

その1

その2

ところで、日本史の教科書にはウソが書いてありますし、教師用の指導要領にもウソが書いてあります。かつて、NHKも歴史発見でウソを放送しました。

実は、鎌倉武士は勇猛に活躍しています。教科書では、蒙古(もうこ=モンゴル)襲来絵詞(しゅうらいえことば)に描かれている鎌倉武士の活躍した部分だけがカットされ掲載されています。NHKも放送しませんでした。

*鎌倉武士のことを描いたアニメ「逃げ上手の若君」

NHKがウソを放送し、教科書が歴史的事実を書かないので、NHKや教科書が広めたウソと事実を比べ、本当のことを知っておきましょう。

1.教科書に掲載されている蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)
鎌倉武士で、熊本の竹崎季長(たけざきすえなが)が苦戦している部分だけが掲載されています。
左:モンゴル軍、右:熊本の竹崎季長
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上記の絵は、重要な部分がカットされています。教科書やTVは、日本が負けているように見せるために、重要な部分をカットしているのです。

2.カットされていない蒙古襲来絵詞

左:退却をはじめたモンゴル軍、右:熊本の竹崎季長(たけざき すえなが)

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なんだか日本軍に弓を引いているモンゴル軍3名だけが奇妙な感じがしませんか?実は、この3名だけ、後世に加筆されたもので、実はモンゴル軍が退却しています。日本が強かったことが知られたら困るので、事実を隠しているのです。

本当はモンゴル軍が退却している部分がカットされているのです。神風など吹かなくても、日本軍がモンゴル軍を追い込んでいた事実は教科書や学校の先生は教えてくれません。

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また、大東亜戦争(第二次大戦)のポツダム宣言では、教科書、マスコミ、そして学校の先生は「日本が無条件降伏した」とウソを教えますが、本当は条件付き降伏です。無条件降伏というウソを広めるために、条件の部分が掲載されなかったり、モンゴル軍の退却を、わざとカットしたり、ウソがあふれています。

*13世紀後半の世界(東京法令 日本史アーカイブ)
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さて、モンゴル軍は3回目の日本侵略を予定していた史実が明らかになっています。その3回目のモンゴル侵略計画の野望を打ち砕いたのがベトナムです。3回目の日本侵略前に、ベトナム軍がモンゴル帝国の水軍をたたきのめしたことも要因の一つとなり、日本侵略計画が消えました。

モンゴル軍 第一次ベトナム遠征:モンゴル軍のベトナム遠征は3回に及びます。第一次遠征時は、まだ宋(南宋)が健在でした。日本へのモンゴル軍の侵略は南宋が滅亡した後です。

*1回目 モンゴル軍 第一次ベトナム遠征

*2回目 モンゴル軍 第二次ベトナム遠征
モンゴルはベトナムをなめていました。

2回もベトナムに負け、怒ったモンゴルのクビライはこのあと、第三次ベトナム遠征も行います(でも、またベトナムに負けました)。

*3回目 モンゴル軍 第三次ベトナム遠征 
クビライ汗はベトナムに負け続け、怒りの第三次遠征。しかし、またモンゴル軍はベトナムに負けます。
57秒より

蒙古(モンゴル)軍の第三次ベトナム遠征で、ベトナム軍がモンゴル帝国を破ったのが、1288年白藤江(バクダン ザン Bạch Đằng Giang)の戦です。

白藤江(バクダン ザン Bạch Đằng Giang)の場所
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復習しておきましょう。
モンゴル軍の侵略 日本
1回目 1274年 文永の役(ぶんえいのえき):日本の勝利
2回目 1281年 弘安の役(こうあんのえき):日本の勝利

ベトナムへのモンゴル軍の侵略
1288年 白藤江(バクダン ザン Bạch Đằng Giang)の戦
:ベトナムの勝利 司令官・陳興道(チャン・フン・ダオ)将軍
参考:知ろうベトナム

ベトナム軍司令官 陳興道(チャン・フン・ダオ Trần Hưng Đạo)将軍についての動画

それから、教科書では教えてくれない歴史は、自ら学んで身につけておくと良いでしょう。事実を知ればすぐに「高校の先生はたいしたことがない」とわかってくると思います。

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なお、元寇資料館は福岡市にあります。モンゴル軍撃退に貢献した日蓮宗の歴史も、この資料館でわかります。日蓮宗の総本山は山梨県の身延山(みのぶざん)です。私も2回ほど行ったことがあります。

身延山

最後に、大村市で日蓮宗の信徒の方ならば、本経寺(ほんきょうじ)の住職の方に質問すると良いでしょう。日蓮聖人がモンゴル軍を撃退するのに、どのような役目を果たされたのかを、きっと教えていただけると思います。

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