●大村高校 校歌
大村高校の校歌は、すでに昭和26年(1951年)から、改正教育基本法(平成18年/2006年 12月15日成立)に、対応したものになっています。
歌詞を音読してみてください。
大村高校校歌の意味
55年前( 昭和26年/1951年)から、大村高校の校歌の歌詞には、今後の 教育方針となる改正教育基本法(平成18年/2006年 12月15日、日本のルール・民主主義で決定した新しい法律 )の、
「豊かな情操と道徳心」、
「公共の精神」、
「伝統と文化の尊重」、
「我が国と郷土を愛する態度」
が、もれなく織り込まれています。
作詞は、福田清人(ふくだきよと)先輩。先見の明(せんけんのめい)があり、偉大な先輩を輩出した母校である大村高校にあらためて尊敬の念を表明します。
大村高校校歌 昭和26年/1951年8月制定:制定されたのは、3回卒3年生、4回卒2年生、5回卒1年生の夏でした。
作詞 福田清人(ふくだ きよと)先輩 1904-1995
作曲 信時 潔(のぶとき きよし)1887-1965
どんな人が創(つく)ったの?
作詞: 福田清人(ふくだ きよと)先輩 [1904生-1995没]
旧制大村中学を2番で卒業→旧制福岡高校(九州大学教養部)→東京大学文学部卒
東大卒業後、立教大学文学部教授、実践女子大学教授、1975年勲四等旭日小綬章を受章
東大時代の同級生に
・入江相政(いりえ すけまさ:学習院大学教授→宮内庁侍従長)、
・堀辰雄(ほり たつお:小説家)、
・臼井吉見(うすい よしみ:小説家)、
・成瀬正勝(なるせ まさかつ:小説家、東大教授、尾張藩[現、愛知県犬山市]犬山の犬山城の城主、大名の子孫)。
現在、愛知県犬山市の明治村に大村高校の前身・五教館出身の大島誠治(おおしませいじ)先輩が、旧制第四高校(現、金沢大学)校長時代に、同じく五教館出身の渡邊昇先輩が命名した第四高校の「無声堂」の建物がそのままの形で現在も保存されています。
場所:は愛知県犬山市の明治村4丁目34番地です。
大村高校の校歌を作詞した福田清人先輩は、大学時代に、旧制大村中学の後輩・蒲池歓一(かまち かんいち:詩人、のちに国学院大学文学部教授 1906生~1967没)らと同人雑誌「明暗」を発行。
福田清人の後輩で、大村から上京したメンバー(旧制大村中学出身のメンバー)の業績
のちに国学院大学文学部教授となった蒲池歓一(かまち かんいち)と、
早稲田大学文学部教授(文学部・学部長)となった川副国基(かわぞえ くにもと)は、
旧制大村中学時代、福田清人らと共に文芸部を創設したメンバーで、
文芸誌「玖城」(くじょう)を創刊した実績を残している。なお、平成17年の現在も、大村高校で「玖城」(くじょう)の刊行は続いている。
1955年 浜田廣介(はまだ ひろすけ:名作「泣いた赤おに」)らと日本児童文芸家協会を設立。理事就任。
他、日本児童文芸家協会理事長・日本文芸家協会名誉会員・日本ペンクラブ名誉会員・日本児童文學學会理事・日本近代文学館顧問。
福田清人先輩の業績
旧波佐見町HPより引用(小学生向けのページ)
児童文学者
明治37年に鬼木郷藤野家で生まれました。中学校2年生の時,黒板勝美博士(*くろいた かつみ 博士も旧制大村中出身)の講演で「大きい夢を持て,夢は大きいほどよい」と励まされました。父は医者(*お父様は炭坑医だった。エネルギー革命前は石油のかわりに石炭で発電していた。当時、長崎県にはたくさんの炭坑があった)の仕事を継がせたかったが,彼は、好きな文学を志し、東京の大学に進み、卒業後は多彩な文筆活動に入りました。
ことに児童文学では、数多くの作品を残されました。これまで,町内(*波佐見町)小,中学校の贈っていただいた図書の数は4000冊になります。また、彼が作詞した校歌は波佐見高校をはじめ、長崎県下の小中高30余校にも及びます。波佐見町の名誉町民です。
(かっこ内の*注は、ブログ投稿人が附した。)
福田清人先輩作詞の長崎県内高校の校歌
母校の大村高校、大村市歌以外に
長崎南高校校歌、大村城南高校校歌、波佐見高校校歌、大村工業高校校歌、長崎工業高校校歌を作詞。
作曲: 信時 潔(のぶとき きよし)1887-1965
経歴
東京出身
明治43年(1910年)東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科器楽部を卒業
大正4年(1915年)東京音楽学校(現在の東京芸術大学)研究科作曲部を卒業
大正9年(1920年)ドイツ留学 シューマンに直に作曲を学ぶ。
大正12年(1923年)ドイツより帰国し、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)作曲家教授= 昭和7年(1932年)まで作曲家の教授で、多くの門弟を育成。
大村高校校歌、大村市歌、慶應義塾大学の塾歌、そして学習院の院歌などを作曲。
●慶應大学と大村のつながり
1. 慶應の創始者・福沢諭吉(ふくざわ ゆきち 大分・中津出身)と、日本医学の祖・長与専斎(ながよ せんさい 大村市久原出身で片町育ち、東京医学校校長[東大医学部学長]、三男の長与又郎が東京大学総長)が、幕末の大阪・滴塾(てきじゅく=大阪大学の 前身)で同期であったこと。
2.慶應義塾大学医学部創設のさい、福沢と長与は何度も話しをしていること
3.滴塾が発展した大阪大学の初代総長は、大村市久原出身の長岡半太郎(ながおか はんたろう)
長与専斎、長岡半太郎ともに、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)出身
●比較対照 大村高校と諫早高校の校歌を比較する
比較しなければ、良さも悪さも浮かびあがらない。
大村の分校として、大村より40年遅く開校した諫早の校歌
1.諫早高校の校歌は1番だけしかない。
大村高校や長崎東、島原高校、佐世保北、長崎西、佐世保南は3番まである(設立順)。
諫早高校は、2番以降ができなかったのか、つくれなかったのかわからないが、1番だけしかない事実。
2.また、大村高校の校歌は、「国の栄えと母校のはえに」と、日本国と大村高校の繁栄を願うダイナミックな歌詞となっている。
諫早高校の歌詞は「母校その名に栄あれ」と母校の栄えだけを願う歌詞となっている事実がある。
3.大村高校の分校であったつながりから、諫早高校校歌の作曲者が大村高校と同位置人物。そして、諫早高校校歌は、大村高校校歌の後で完成。諫早高校は、東京にコネクションがなかったので、東京の大村人脈をちゃっかり借りたように見えるのですが、どうなんでしょう。