赤本の教学社って、京都の会社だったんですね。
京都市営地下鉄、四条駅にて
百周年を越えた大村高校マラソン大会、みんなが越えてきたマラソン大会
皆様、忘れていらっしゃるのではないかと思いますが、平成27年度/2015年度(平成27年4月1日〜平成28 [2016] 年3月31日)で、大村高校マラソン大会は100周年を迎えました。
県内他校と大村高校の違い
さて、他校と違うのは、大村高校は、両道不岐(りょうどうふき)の校是が象徴するように、大村高校から出るエリートは、勉強も運動も、精神も身体も強いということです。
いくつかある両道不岐精神の原点の一つになるのが、伝統の校内マラソン大会なのです。
大村高校マラソン大会のはじまり
誰も伝えようとしないので、大村高校のマラソン大会の発祥までさかのぼり、伝え、書き記しておきたいと思います。
では始めます。
参考文献:大村高校百年史、野口山荘随筆、秋の目玉
名古屋市の旧制愛知一中(現、愛知県立旭ヶ丘高校)の校長
今から103年前の大正元年(1912年)、「バンカラ紳士」で鳴らした名古屋市の名門・旧制愛知一中(現、愛知県立旭丘高校)。
その旧制愛知一中・日比野寛(ひびの ひろし)校長が、全国の旧制中学に「中学マラソンを奨励せよ」と提唱。
日本の「マラソンの父」が旧制大村中学を訪問、生徒にマラソン指導
その年、日本における「マラソンの父」と称される熊本県玉名出身で、オリンピック出場(後に熊本県教育長)の金栗 四三(かなぐり しそう)選手が、旧制大村中学にマラソン指導で訪問されました。
熊本県玉名市のホームページに記された金栗選手
渋江校長によるマラソン導入
金栗選手の来訪と旧制愛知一中・日比野校長の提唱に共鳴した、当時の旧制大村中学・渋江小磨策(しぶえ こまさく)校長先生(第十五代校長)により、大正四年(1915年)、正式科目としてマラソンが導入され、同時に、校内マラソン大会が実施されることになりました。
繰り返します。皆様、忘れていらっしゃるのではないかと思いますが、平成27年度(2015年度)に、大村高校マラソン大会は100周年を迎えました。
渋江校長、まゆ毛が太い普通のおじさんに見えるでしょう?実は、旧制大村中学一期生で、ノーベル物理学賞受賞の朝永振一郎博士のお父様である朝永三十郎先輩の右側の人です。若い頃は少しニヒルな、いい男です。
渋江先輩の経歴は、
大村小学校→旧制大村中学→国立第五高校(熊本大の前身)→東京大学文学部
です。
渋江先輩は、大学生として東京に出てからも、大村の大先輩である長岡半太郎博士のところに挨拶に出かけたり、朝永三十郎(一高→東大文学部)先輩や、のちに大阪大学第二代総長となる楠本長三郎(一浪→一高→東大医学部)先輩と交流を続けていました。
*1884年 明治17年 旧制大村中学にて
朝永三十郎先輩の右が、のちに校長となる渋江先輩
↑旧制大村中学、入学時の写真
江戸時代が終わってまだ17年。けっこう貴重な写真です。写真が誰なのかわかるように、それぞれの人の名前が墨で書かれていました。
この旧制大村中学一期生の写真が撮影された明治17年、映画やアニメでいえば、明治16年の緋村剣心(ひむら けんしん)・「るろうに剣心」の時代です。
↑大村の先輩方と、るろうに剣心に登場する神木隆之介の服装が同じです(シャツの上に着物、そしてスボンではなく袴[はかま])。当時の学生(書生)のかっこうだったことがわかります。
当初のマラソン大会はハーフマラソンで約20キロ
当初のマラソン大会は、大村公園の二重馬場から、松原の鹿ノ島まで。往復約20キロ。
当時も在校生(1年から5年まで、旧制中学は五年制)五百人が、何日も前から練習を続けました。
当時は学年ごとではなく、在校生500人全員が一緒に競争しました。マラソン大会当日は、本小路(ほんこうじ)、本町(ほんまち)、水主(かこ)町、松並、桜馬場、宮小路(みやしょうじ)の沿道に、住民や小学校の児童が旗を振って声援したそうです。
↓当時のマラソン距離の表記はキロメートルではなくマイルで表記されていました。福田清人先輩の「秋の目玉」に書かれています。
当時のマラソン大会に関して
校是・両道不岐と最初のマラソン大会優勝者
ここで大村高校の校是である両道不岐(りょうどうふき)を思い出して下さい。
校内マラソン大会五百人で、第一回から第三回まで三年連続優勝し頂点に立ったのが、橋口義男(はしぐちよしお、旧中18回卒)先輩。
橋口先輩は校内マラソン大会のみならず、在学中、北九州マラソン大会で優勝されています(当時は、全国レベルの高校総体のようなものがありませんでした)。
最初のマラソン大会優勝者の練習方法とその後の進路
橋口先輩の家は、竹松でした。毎朝、竹松から、通学をマラソンの練習にあて走りながら登校。距離は6キロ、学校が終わると、夕方、竹松の自宅まで走り帰宅しました。毎日、往復12キロ。
旧制大村中学在学中、マラソンでならした橋口義男先輩は、その後、熊本の旧制第五高校(現、熊本大学)・理科系に合格。当時、九州に旧制高校は、4校のみ。
長崎に高校はありませんでした。
九州の4高校
熊本の第五高等学校(現、熊本大学)、
鹿児島の第七高等学校(現、鹿児島大学)、
福岡高校(現、九州大学教養部)、
佐賀高校(現、佐賀大学)
五高を経て、東大工学部の船舶工学科に進学されました。橋口先輩は、健全な身体に健全な精神と、鍛えられ、まさに、両道不岐(りょうどうふき)。
橋口先輩の進路
大村市立竹松小学校(現在も竹松小学校)
→旧制・県立大村中学校(五年制。現、大村高校)
→旧制第五高等学校・理科(三年制。現、熊本大学理系)
→東京大学工学部・船舶工学科
橋口先輩は、ただ勉強ができた、進学できただけという、それだけではありません。勉強ができただけではダメなのです。社会にどう貢献したか、できたか、しているか、なのです。
最初のマラソン大会優勝者が設計した日本初の飛行艇アヤナミ
ところで、あなたは、飛行艇というものをご存じでしょうか?この分野では、日本が世界最大級といわれる飛行艇を、現在も新明和工業という専門メーカーが製造しています。機種は、海上自衛隊のUS-2というものです。
大村で飛行・着水訓練があった海上自衛隊のUS-2水陸両用飛行艇 / 新明和(旧・川西飛行機)製造
3分40秒から離水
この飛行艇の元祖は九七飛行艇といいます。名称は綾波(アヤナミ)です。
九七式飛行艇、二式大艇が飛行している貴重な動画(戦中)
新世紀エヴァンゲリオンの綾波レイの綾波を思い浮かべるかもしれませんが、エヴァンゲリオンのアヤナミは、艦コレで登場するように、帝国海軍の駆逐艦(くちくかん)の名前でした。
実は、この九七式飛行艇・綾波(あやなみ)は、旧制大村中学時代、マラソン大会で三年連続優勝した橋口義男先輩が責任者となり統括し、1934年(昭9)11月に設計を開始したものです。マラソンでならした橋口先輩は、東大の船舶工学科を出た後、海軍に技術者として就職。それから飛行機の技術を習得し、川西飛行機に就職。船舶が専門だったため、船舶の知識を活かして、飛行艇の開発をされました。
連合艦隊司令長官・山本五十六氏と最初のマラソン大会優勝者
エピソードとしては、東大在学中に海軍技術学生に応募。このときの試験立会人が、山本五十六(やまもといそろく)後の連合艦隊司令長官。その縁で、1930年代、橋口義男先輩がベルリン(ドイツの首都)留学中に山本五十六・海軍大将(当時)から、ロンドン(英国の首都)によばれ、ロンドン軍縮会議では、山本五十六氏の秘書を務め、迅速に業務を遂行しました。
*映画で描かれた山本五十六連合艦隊司令長官
山本五十六司令長官が登場する映画「トラトラトラ」。
その映画に登場している源田実(げんだみのる)中佐は、戦後、大村市で講演されました。実は、幼少時、祖父から連れられ、私も講演に行き、源田実中佐を見たことがあります。当時、「源田実氏きたる!」というポスターが、国道34号線、大村高校正門そばに掲示されていました。
終戦時、橋口先輩は、階級は帝国海軍の技術少将でした。技術部門で、帝国海軍でNo.2でした。
技術将校とは?
ガンダム史でたとえれば、ガンダム史に登場する603技術部隊。技術将校(技術中将、技術少将)は、技術部門の上層部にあたります。
5分20秒より、技術将校が、部下の技術担当者に命令を出す場面。
九七式飛行艇では設計責任者だった橋口先輩。
それから、帝国海軍の二式大艇(にしきたいてい)開発技術責任者が、橋口先輩でした。飛行艇の開発で勲五等を受賞。海軍の戦闘機、紫電改(しでんかい)の開発も橋口先輩でした。
現在の、海上自衛隊US-2は、九七式飛行艇、二式大艇の伝統を受け継いでいます。
両道不岐、少しは理解していただけましたか?マラソン大会百周年、生徒の皆様はがんばりましょう。みんな越えてきたマラソン大会なのです。
付録:長崎県教育委員会の大きな間違い
戦後、長崎県教育委員会と長崎県の教員たちは、歴史を抹殺して、戦前の事実を伝えてきませんでした。長崎県の教育界では、過去を消すことばかりしてきました。その罪は大きいですよね。そういう長崎県がイヤになった人も多いと思います。ただ、もう、時代は変わりました。
*なぜ昔のこと、歴史を知る必要があるのか?過去の学校のことを知る必要。
長崎県教育委員会の問題
教育学部を出た一般の教員や教育委員会の方々は調べて考える能力がありませんし、そういうレベルの方々が教員や教育委員会のメンバーなのではないか?と思います。また、反日勢力の影響を受けています。
長崎県教育委員会は、悪魔の歴史認識を長崎県上五島・奈良尾中学校教諭が、生徒に対して正規の授業中に刷り込んだ問題を、お茶をにごす甘い処分ですませています。教員や教育委員会が信頼されなくなった原因をつくり出しています。