いくら高い志(こころざし)があっても、志(こころざし)だけでは願いは達成されない。
345年の伝統(平成27[2015]年現在)がある大村高校、そして、その先輩である五教館(ごこうかん)の方々は、経験則(けいけんそく)から、志だけではダメなことを知っていた。だから、両道不岐(りょうどうふき)というキーワードが考え出され、「人生を渡ってゆくためには、志だけではダメなんだよ」と教えてくれる。
両道不岐を校是にしているのは、大村高校。そして、ほぼ同じ意味の文武不岐(ぶんぶふき)という言葉を伝えているのは、やはり、東北地方の伝統校である、会津(あいず)の福島県立会津高校であることから、わかるであろう。
福島県立会津高校のHPより
長崎県立大村高校の両道不岐
伝統のない、経験が受け継がれない、偏差値さえよければすべてよしとする、新興の学校では、志だけでいい(長崎西高)とか文武両道(諫早高校、長崎北高)だけでいいと言われている。そうではいけないから、両道不岐、文武不岐となっている。
両道不岐により、情報と教育、そして行動を重視する大村。
少し歴史をふりかえろう。
昔、長崎はなかった。大村の家来にすぎなかった長崎は一代で滅びている。
日本の中世、長崎も佐世保も諫早も佐賀もない。あるのは、筑前(ちくぜん)の博多(今の福岡市)、肥前(ひぜん)の大村、肥後(ひご)の八代、豊前(ぶぜん)の宇佐、豊後の府内(今の大分市)、薩摩の鹿児島。
戦国時代から、国替えにも、取りつぶしにもあわず、平成の現在も続いているのは、九州では薩摩の島津と肥前の大村だけ。
さて、大村は、戦国時代は豊臣秀吉方となり、朝鮮出兵では小西行長とともに、一番乗りで明(みん)と明(みん)の属国だった朝鮮の軍を打ち破った。
朝鮮出兵 文禄(ぶんろく)の役(えき) 1592年
一番隊:小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前(おおむら よしあき)、五島純玄(宇久純玄)ら計18700人
1592年 6月15日、一番隊・小西行長らが平壌(ピョンヤン)を制圧する。
慶長の役 1598年
出典:名古屋市、秀吉・清正記念館パンフレットパンフレットには、大村喜前(よしあき)公の名前が掲載されていました。その書状の名は慶長の役(1597年)陣立(じんだて)書。朝鮮出兵のさいに、大村からは千名が出兵(上段左から二番目)。いとこの島原の有馬は二千名(上段左から三番目)。さすがは小西行長公(右から二人目)、七千名も。
*参考:島原の有馬と大村
画像:「天正遣欧少年使節のたび」様より
そして、世の中の情勢が変わると、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の関ヶ原では、大村は徳川家康についた。
日本で二番目に開校した、五教館により、大村領内の教育と、情報に敏感だったため、大村は時局を読みことができ、江戸時代の終わり、大村は長崎市を統治する長崎奉行となった。そして、明治維新では、長州につき、新政府側となった。
*文久二年とは?西暦1862年です。明治維新が1868年だから、明治維新の6年前です。
幕府方となった会津は新政府側に負けた、会津藩の藩主・松平容保(まつだいら かたもり)公。その孫娘が、大村家に嫁がれた。大村高校100周年(昭和59年・1984年)でご挨拶された、大村家の奥様がその方です。大村と会津は無縁ではないのです。
天保6年12月29日(1836年2月15日)、 幕末に京都守護職を務めた松平容保(陸奥国会津藩の第9代藩主)が生まれました。
画像は、容保の花押です。 pic.twitter.com/5qFBvLTFkO
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) 2015, 12月 29
大村藩は新政府軍でした。大村藩は、戦勝パレードを大村の片町から本町でおこなっています。そのパレードの一員だったのが、後に明治学院大学創設メンバーとなる熊野雄七(くまのゆうしち)先輩。パレードを見て刺激を受け、「学問するには東京だ」と、感じて、刺激を受けたのが、当時、大村高校の前身・五教館(ごこうかん)の生徒で、後に北海道大学総長となる南鷹次郎(みなみたかじろう)先輩です。
さて、志(こころざし)や知識だけでは渡っていけないのが世の中。世の中に名前が出た大村の先輩は、そのことを教えてくれる。知識も行動も、学問も体力があってなしとげられ、健全な身体に健全な精神が宿る。ハンパものにならないように、精神だけの他校とは違うことを教えてくれる両道不岐。在校生も卒業生も胸に刻(きざ)んでおこう。