平成28年(西暦2016年)3月卒は、大村高校68回卒で、通算132回卒となります。
当初、中学は4年制。半年ごとの飛び級制度で、成績上位者は、最短2年で卒業できました。
のちに、5年制となり、成績の良い人は4修(よんしゅう)といい、4年で進学、卒業できました。4修で旧制高校に進学していました。4修の先輩は「特選校友」(とくせんこうゆう)と呼ばれ、尊敬されていました。
第1回入学者は、1884年(明治17年)に99名でした。
第一回入学では、ノーベル物理学賞・朝永振一郎(ともなが しんいちろう)博士の父親である朝永三十郎(ともなが さんじゅうろう)、のちに東大医学部をトップで卒業し、大阪大学二代総長(学長)となる楠本長三郎(くすもと ちょうざぶろう)の方々が、いらっしゃいます。
朝永三十郎先輩と同期の、楠本長三郎先輩は、東大医学部をトップ卒業なのですが、人生で一度大きな敗北を味わっています。私立大村中学卒業後、旧制一高(東大教養部)の入試に落ちています。浪人中、現役で先に旧制一高に合格した大村の同期・朝永三十郎から励まされて、捲土重来(けんどちょうらい)で再挑戦し、合格されました。
大阪大学初代総長(学長)は、大村の長岡半太郎先輩(大村高校の前身・五教館出身)、そして二代総長は楠本長三郎先輩です。
卒年表
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第二次大戦前の学制制度の一部
1.小学校6年制(義務教育は小学校6年間のみ)
2.中学校5年制(成績優秀者は4年で卒業、進学が可能だった)
3.高等学校3年制
第一高等学校:東京、第二高等学校:仙台、第三高等学校:京都、
第四高等学校:金沢、第五高等学校:熊本、第六高等学校:岡山、
第七高等学校:鹿児島、第八高等学校:名古屋
長崎に高校はありませんでした。
大村の卒業生から第四高等学校(金沢)の校長になった人がいます。
4.大学3年制
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昭和3年11月 校歌が制定されました。
昭和8(1933)年~昭和63(昭和最後の年、1988)年12月まで、55年間使用した校舎。
50回卒~高校1回卒は、第二次大戦の後の社会の混乱で、あわただしかったそうです。旧中50回卒~高校1回卒の同窓会は三艘会(さんそうかい)と言われ、合同で開催されていました。田崎真珠の創業者・田崎先輩が48回卒、貞松病院院長などが50回卒でした。戦争前は、旧制大村中に、飛行機部があって、空を飛んだ経験のある先輩もいらっしゃいます。
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1回卒から3回卒までの先輩の特長
当時は、男女別学だった。入学当時は男子は5年制だった。旧制最後の学年は、1945年/昭和20年4月に、旧制大村中学(5年制)に入学。
旧制48回卒(田崎真珠の田崎会長など)、49回卒、50回卒(貞松病院の貞松先生など)、1回卒、2回卒の上級生は全員、学徒動員で、現在の難民センター付近にあった海軍の工場で、ゼロ戦・紫電改など、飛行機を製造していました。
大村高校の先輩が出版された本「不帰春」という書物に、学徒動員時代の記録が残されています。
入学時は5年制だったが、アメリカ軍の占領統治によりなされた学制改革により、旧制中学が新制高校となり、卒業時は、男女別学が共学になり、大村高校卒業となった。
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平成2(1990)年 2月 総合落成式挙行
42回卒の特長
42回卒は、1年時に旧校舎を4月から11月までのわずか8か月使用。その後プレハブ校舎でガマンし、3年時・卒業前の2月にたった1か月だけ新校舎を使用。少し割を食ったかもしれないが、旧校舎も新校舎も体験した唯一の卒業年次。
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平成7年(1995)に、インターネットが日本に導入されました。当時、コンピューターが使える人を「オタク」と呼び、なかなか相手にされませんでした。東京の上場企業(大企業)でも、インターネット導入時、団塊の世代が反対し、日本の企業はネットに出遅れました。団塊の世代は、キーボードが打てないことを理由に、「パソコンなんてゲームしかできない」などと、新しい環境を拒絶したのです。
学校現場では、さらにネット環境の導入が遅れました。新しいことを拒絶したためです。TVや新聞は、ネットは害悪だと流し続けました。日本のネット環境が世界的に出遅れ、国際競争力が少し弱体化したのは、団塊世代、教員、マスコミの責任が大きいのでは?と思います。
随時、追加していきますので、心配なく。
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