この8月(平成29年/2017年)に、映画「関ヶ原(せきがはら)」が公開されるようです。1600年の戦いで、その後の日本の行く末が決定されました。この時、大村藩はどうだったのか?それは、直接、関ヶ原に行った時に書きました。
結論を書けば、この時、大村は、関ヶ原に出兵はしませんでした。黒田官兵衛(当時は大分、後に博多を治める)を除く九州の他藩は西軍でした。が、大村は徳川家康の東軍につきました。もし、大村が東軍でなければ、滅ぼされてしまい、その後の大村藩はなく、大村高校の前身である五教館(ごこうかん)が創設されていなくて、大村高校はなかったことでしょう。
滅ぼされたところがどうなるか?それは、大村の隣りである諫早(佐賀によって滅ぼされた)をみればわかるように、その後は一揆が発生し人心が安定しないで、なんだか卑屈な精神を持つ感じがする町になってしまうのです。
*映画「関ヶ原」平成29年/2017年 8月26日全国公開
*関ヶ原
*関ヶ原は、古代の、壬申の乱(じんしんのらん:知らない人は調べておくこと)の激戦地でした。
*豊臣秀吉と、前田利家(後の加賀百万石)、そして加藤清正の実家は歩いていける距離です。
秀吉と清正は名古屋市中村区、利家は名古屋市中川区。
加藤清正のアドバイスで大村は、キリスト教にかわり日蓮宗になりました。
*前田利家の加賀は100万石の当時最も裕福な藩(福岡の黒田は52万石、熊本は54万石)でしたが、加賀の金沢城は、大村の玖島城と同じく天守閣がありませんでした。その理由。
*徳川家康は、今川義元の人質に出されていましたが、織田信長が現在の名古屋市緑区桶狭間(おけはざま)の合戦で、今川義元の首をうち取ったことから、家康の人生がスタートします。
大村領だった西彼杵に上陸した宣教師ルイス・フロイスは、大村から織田信長の岐阜城まで行ってます。
続く