大村と徳川の関係は、まず関ヶ原で、大村が東軍の徳川方についたことから始まります。徳川家光の時代に養子として旗本の伊丹家から、四代藩主となる大村純長公が大村に。大村純長公は、大村高校の前身・集義館(しゅうぎかん)を創設した藩主です。
*キスの習慣は、この時代にはなく、幕末まで日本に持ち込まれなかったので、ディズニー映画にだまされないように。それに細川ガラシアは英語はしゃべれなかったので、この点もダマされないように。史実ではなく映画ですから。
大村家断絶の危機に、三代将軍・徳川家光のはからいで伊丹家から養子をとり大村家が存続しました。その恩に報いるために、大村藩では歴代将軍の霊を祀(まつ)る寺である円融寺(えんゆうじ)を建立しました。
円融寺に関してのいきさつは、「大村の歴史」という本をご高覧ください。
仕事で名古屋、静岡などに行くようになってわかりましたが、いまだに、名古屋や静岡では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、現在も生きているようなかんじで話が語られます。
名古屋では信長・秀吉・家康、静岡では家康、そして岐阜では信長です。
静岡など、駅前に徳川家の紋章である葵(あおい)タワーがあり、シンボルになっています。
徳川家の住居跡はレストランとホテルになっています。入店してランチを食べてみました。浮月楼(ふげつろう)、ちょっと高めでした。
さて、大村にも縁が深い徳川幕府、その初代である徳川家康公が生まれた場所を訪問してきました。7月です。
もし、今川義元(いまがわよしもと)が桶狭間(おけはざま)で信長に負けなければ、家康は今川義元の人質のままで、徳川は自立できなかったでしょう。桶狭間(おけはざま)は名古屋市緑区にあり、東海道53次の鳴海(なるみ)の宿場近く。
大村藩は参勤交代で数百回も鳴海を通過しています。
ところで、なぜ、日本人の行動原理に「もったいない」という考えが定着したのかは、徳川家発祥の地を訪問してわかりました。徳川発祥の地は、山の中にあります。登山の経験があるならわかるように、山ではモノが欠乏(けつぼう)するため、質素倹約になります。
もし、徳川が天下を取れないで、豊臣の時代が続いていたら、日本は違う国になっていたと思います。豊臣秀吉は、農産物が豊富な地域に生まれ育ち、しかも派手好きでしたから。
徳川発祥の地は、愛知県豊田市松平にあります。つまりトヨタ自動車本社があるところです。トヨタの質素倹約の精神も、徳川と通じるような気がしました。
それから、徳川家の紋章は、徳川家発祥の地に自生しているフタバアオイ(二葉葵)から考案されたデザインです。そのフタバアオイです(下)。
ほか。